先日宣言した通り、日記の整理を進めているけれど、
想像以上に精神的に重く来る作業だなぁと感じている。
というのも、言ってしまえば今更思い出す必要もないような、
色々な記憶(主には毒親からの仕打ち)が蘇ってきてしまうからなんだなー…。
でももちろん、そういったことは想定の範囲内であって、
早速、このブログのネタに活用するという効果(?)が得られる、と
ポジティブに捉えるようにしている。
タイトルにあるテーマについて、
日記を読み返していて今の私が思うことを、
半分は当時の自分に言い聞かせるつもりで書いてみる。
「親の望む通りの人間になろう、そのために努力しよう」
こういった考えは、考えているつもりでいて、
実は思い切り思考停止している状態に他ならない。
「自分であれこれ考えるより親に決めてもらった方が楽だし、
いざとなれば親を責めればいい、自分は悪くない」
このような他責思考、他力本願が根底にあった以上、
当時の私としても、精神的に貧しかった毒親と
根本は何も違わなかったりして、ね。
世の中の大半の親というものは、自らの子供に対して
「こうなってほしい、こうであってほしい」
という期待を多かれ少なかれ抱く生き物だと思う。
でも本当にその通りになったとして、あなたは幸せなのか?
例えあなたの親が毒親でなくても、
「とりあえず親の言う道に進む」が一番危険な選択である可能性もある。
親は自分より数十年も前の常識で生きてきた人間である。
士農工商時代とかならそれでよかったかもしれないが、
VUCAと言われる現代でそれが通用するのだろうか?
「年の功」も備わる一方で、「自分らの頃はこれが常識だった!」というジャンクな記憶も蓄積されている古い人間の存在は、
むしろ後者の弊害の方が、前者の恩恵を遥かに上回るのではないだろうか。
彼らによって導き出された、「とりあえず無難な道」がいかに危険な道であり得るか、
まだ気付いていない人は早く気付いてほしい。
どの道を選んだって正解にも不正解にも転び得るんだから、
それだったら親ではなく、自分が一番納得できそうな道を選んだ方が
自分も満足がいく人生を送れる可能性は高くなるし、
それに付随して結果的に親も幸せになるのではないだろうか。
「あなた」という人格を捨ててまで
親の望む通りの人間になったところで、
あなたが親から得られる感謝の念の期待値は
笑っちゃうくらいに「ない」ということは、
私がここに保証しておく。
そもそも、子供が親の期待に沿ったり、親を幸せにする義務など一切ない。
もしそれを強要する親がいたとしたら、それは毒親説濃厚なので、
あなたの感覚が狂う前に、距離を置くことを考えた方がいいかもしれない。
家族大好き人間には非常に冷たく聞こえるかもしれないが、
いくら血が繋がっていようが、あなたは親とは別の人間であり、
(まだ物事の判別がつかない幼い頃は別として、)
互いの人生に干渉する権利など最初から存在しないのだ。
客観的根拠のない「親の言う通りに」は、
ただの「思考停止状態」だし、ただの「逃げ」にすぎない。
もし、それでもいいと言うのであれば、
例えあなたの人生が失敗に終わったとして、
誰が責任を取るんですかって話を考えようか。
まず、親は100%取ってはくれないと断言していい。
例え親が遺憾の意を表したとしても、あなたを産み直すことなどできない。
何よりも大事な「時間」というものを、取り返す術などない。
となると、結局はそんな親に従う選択をした自分自身に、
責任というものが特大ブーメランとなって帰ってくるしかない。
いずれにしても、自分の責任で自分の人生を歩む他ないってことが、
明らかなんじゃないかな。
同じ失敗だとしても、
「自分で選択した結果」なのか
「親に決められて選択した結果」なのかで
自分の中で受け入れるハードルが全然違うのは、
言うまでもないだろう。
過去の自分含め、この基本的なことを理解できていない思考停止人間(親サイド、子供サイド両方ね)が
まだこの世の中にうじゃうじゃしている気がしてならないので、
今思うところを一言、書いてみた次第です。