何かの巡り合わせなのか、小・中・高時代とそれぞれ、
面倒くさい先生に少しでも目をつけられ、絡まれたことがある。
と言っても、悪いことをして叱られるという類のものではなく、
「どうしたの?私に何でも相談してちょうだい」的な感じで、
多かれ少なかれ、まとわりつかれたことがあるってものだ。
いずれも、土地も雰囲気も全然異なる学校で起きたのだが、
共通していたのは、いかにも「私、生徒思いのいい先生やってます♡」と心の声がだだ漏れしそうな笑顔を浮かべて迫り来られたことだ。
その度に悲しみと胸糞の悪さが込み上げてきたのを覚えている。
なんなら、取り乱しすぎて何度か堤防決壊させたこともある。
それだけ不幸オーラを放っていた子供時代だったからなのだと思う。
実際、ちょっと突けば心の膿がどっと吹き出しそうなくらい、
当時は重すぎる闇を心に抱えていた。
でも自分にも、他人にはそれ以上に、どうしようもできないことだったし、
自分の惨めさを「他者が見ても、救わなければならないと思われる状態」と認めなくなかった感情も相まってか、
とにかくそっとしておいてほしかった。
それなのに、偽善者先生はそこを容赦なく突いてきた。
当時もわかっていたことだし、今考えてもそうなのだけど、
おそらく彼らに悪気は全くないんだろうな、と。
自分のその言動が相手をさらに追い詰めていることは、想像すらしていない(もしくは、できない)んだと思う。
他者と繋がりを持つことに喜びを感じるタイプの人であれば、
これを好機と捉えて、先生相手にデトックスするのかもしれない。
でも私にとっては、心の中がえぐられかき乱される屈辱の感覚しかなかった。
それもよりによって、(数少ないけど)そこら辺の友達より遥かに赤の他人である先生なんかに、
なぜ心を開かなきゃいけないのか、どうしても理解できなかった。
そもそも人に心を開けないことに苦悩していたのだし、
失礼を承知で強引に例えるなら、下半身麻痺の人に、
「ねぇ、何であなたいつも車椅子に乗ってるの?
みんなみたいに自由に歩き回りたいと思わないの?
さぁ、立ち上がって、私と一緒に走ってみようよ!気持ちいいよ!」
と問い詰めるのと同じことだからだ。
いっそ私にずっと無関心でいてくれた方がどれだけ助かるか、と何度考えただろう。
でも残念ながらそんなことは、当の本人はもちろん、
親(後に毒親と判明)に自分の気持ちを話したところで、全く理解されなかった。
そりゃそうか、当事者以外は誰も彼も、「誰かを気にかける=絶対的な善」と信じたまま思考停止しちゃってるもんね。
そもそもの話ね、
当時の私含め、子供だって頭は悪くないし、
あなた方先生が信頼するに値する人間、かつ、自分の悩みを解決してくれる見込みが高い人間だと判断していたら、
自分から相談しに行きますからって。
だからあなたにいつまでも相談しに行かないっていうことは、
そうでないことの立派な意思表示なのよ。
それに気付かず、「私は相談するに値する人間よ」と自ら宣言しに向かうなんて、
(そして人によっては数回拒まれてもなお、しつこく売り込みに来るなんて、)
どの面下げてんだよ、身の程を知れ、としか思えない。
ちょっとしたストーカーだな、とすら思う。
当時の私はめちゃくちゃ小心者だったから、
「あなたに何の関係が?私のこと、何も知らないくせに。ほっといてくれませんか?」
なんて、喉まで出かかっても声になんてできなかった。
今の私だったら言っちゃってたのになぁ、なんてたまーに妄想するけど、
どれほど偽善者だろうと先生というものがトップに立つ学校という場が、
自分の世界のほぼすべてを占めていたような「生徒」という身分じゃなくなったからこそ思える部分というのも、
少なからずあるんだろうなとは思う。
自分の場合は、元々他人というものに関心が薄いというのもあって、
そのような人になる心配は少ないのかもしれないけれど、
相手を助けるつもりの行動が相手を傷つけることもあるってこと、
自称親切マンは特に自覚した方がいいんじゃないかなって思う。
自分の知らないうちに親切を押し売りして、
あなたは自己肯定感に酔いしれるかもしれないけれど、
押し売りされた方は心がズタボロになることもあるんだよ。
この世によくある、地獄絵図の一種ってところなのかね。