日本ではどうか知らないけれど、
私が中学高校をすごした国では、
中高生の学校課題として、よくエッセイ(小論文)が課されていた。
もし日本ではそういうのがないのだとしたら、
画一的な答えを求める印象のある日本の教育よりは
個々の生徒の個性を重んじる慣習があるということがわかる。
ところがどっこい、学校教育の一環である以上、
「採点」という儀式から生徒も教師も逃れられない。
各エッセイには、採点基準が厳格に定まっている。
そして教師が定めたその基準を満たすように、
ピッタリと型に"ハマる"エッセイを書かないと、良い点は取れない。
まぁそうしておかないと、
書かされる側も採点する側も
頭を抱えることになりかねないので、
効率重視の観点では理解できる。
でも、私が一番首を傾げたくなったのは、
「ハンバーガー手法」と呼ばれるものだ。
これは、上下にバンズがあり、その間に具が挟まっているハンバーガーに
文章の書き方をなぞらえたものだ。
最初に主張(上バンズ)
次に裏付け#1(具1)
次に裏付け#2(具2)
次に裏付け#3(具3)
最後に主張と同じ結論(下バンズ)
...この型の通りに書きなさい!異論なし!というもの。
......
うーーん、わかるよ、言いたいことはわかる。。。
おそらく一番理路整然としていて、
誰が書いても誰が読んでも主旨が伝わる文章の型だからね。
でも、これを初めて聞かされた当時の私は不服だった。
「何で裏付けが3つって前提なんだよ! 2つや4つじゃだめなの?」
「何で最初に主張したことをそっくりそのまま最後に繰り返さなきゃいけないの? 記憶喪失なの?」
「主張と裏付け以外に何も書いちゃいけないの? 味わいもへったくれもねーな!」
個人的には、文章を書く楽しさって、
最終的にどんな完成図になるか、
書き始めはもちろん、書いてる途中も
自分で全部は見えないところにあると思うんだ。
もちろん、ざっくりと方向性は決めて書くけど。
途中で、パズルのピースをあちこち動かしながら
互いにピッタリとはめていく感覚を、
「ハンバーガー手法」では味わうことができないんだ。
(せいぜい裏付けの登場順番を考えるくらいか?)
「採点」がある以上、学校用のエッセイにはそれが許されていない。
お題もちゃんと教師から与えられ、ご丁寧に型まで指定されている。
...ぶっちゃけこれ、エッセイを課す意味、そんなにある?
「生徒が教師の指示にどれだけ従っているか」以外に何を見たいのかわからない。
今で言えば、これこそAIが得意とする文章生成法なんじゃないかな。
知らんけど。
という話は置いとくにしても、まるで、
「あなたたちは好きなように自由に泳いでください。
ただし、泳ぐのはこの5m×5mの透明な水槽の中です。
教師はいくつかの角度から見たあなたたちの泳ぎを採点します。
どの角度から見るかは、配布物に記載している通りです。」
って言われているようで、何とも言えないモヤモヤを感じた。
ハンバーガー手法は高校まで付きまとってきたし、
それが明示的に指示されたわけではないエッセイを課されても、
所詮は水槽が多少大きくなっただけにすぎなかった。
効率からは程遠いかもしれないけれど、
あーでもないこーでもないと考えながら、
自分の書きたいことを書きたいように書くのが
やっぱり一番楽しいし、
「書く」という行為を意味のあるものにできると思う。
教師の言葉を真に受けてハンバーガーなんて作り続けてたら、
今頃私は、新川由記としての活動なんて皆無だったろうし、
そもそも日記なんて書けやしなかっただろうね(笑)
(日記とは?と思った方はこちらもどーぞ!⬇️)