草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

「なるようになる」ってこの世の真理なのかも

私の表面上の経歴(主に学歴・職歴)を見たら、

大抵の人は「恵まれた人だ」と思うことだろう。

何なら、「きっと順風満帆な人生なんだろうな」と

羨ましがる人もいるかも。

確かに、

「ど平均的な日本人」という者がいたとすると、

私はその人が

得ることのできなかった経験をしたし、

入学することができなかった学校を卒業したし、

入社することができなかった会社で働いているし、

得ることができない収入を得ている

と言えるかもしれない、幸運な人間である。

とは言え、これまでの人生の中で、

私にだって

悔しい挫折の経験はいくらでもあるし、

縁もゆかりもない遠い土地に夜逃げして

何もかもリセットしたいくらい

何をしても見事に空回りしまくってた時期があったし、

周り皆が簡単そうにできていることが

私にだけ難しくて

絶望したことなんて数えきれないほどあるし、

自分にも身内にも他人にも

◯意(本気のほう)を抱いたことも飽きるほどあるし、

生まれてくる前に

「魂をそこそこ成長させたいから、

(少なくとも人生序盤は)そこそこハードモードな

人生を選択します!」

とでも決めてなきゃ辻褄が合わないと思うくらい、

少し前まで私の人生は試練続きだったと感じる。

 

でもそれと同時に、

「私の人生、自分が思っていたほど悪いものじゃないのかも」

とここ数年で思えるようにもなった。

私が歩むことのできなかった「もう一つの道」を

進んでいたらどうなっていたかなんて、

本当のところは知る由もないけれど

きっと今この現実で

「私は幸せだなぁ」と感じることの個々の要素には、

あっちの世界では

たどり着けていなかった可能性が高いんじゃないかな、

と思ったりする。

これが俗に言う、「結果オーライ」というやつだろう。

 

一般事例の中で具体的に挙げるならば、

受験なんかがわかりやすい例だよね。

一見、憧れの難関校に合格することは

学生にとってはこの上ない幸せなことで、

これから先の人生がバラ色にしか見えないかもしれない。

でも、入学先の校風に馴染めなかったら?

周りのレベルについて行けなくて、自信喪失してしまったら?

「その学校への合格」だけを目標に行動してしまったがために、

その後の生きる意味がわからなくなってしまったら?

その学校在学の数年間のみならず、

その後の何年も、ひょっとしたら何十年も、

当人の人生に暗い影を落とす結果になるかもしれない。

それだったら、本人が無理せず合格できて、

世間的にはそこまで評価が高くなくても、

本人が「ここに入学したい」と心から思える学校に

納得して入学した方がよっぽど良かったわけで。

 

私が機能不全じゃない家庭でキラキラな生活して

メンタルケアもバッチリ万全で育てられてたら、

「かがみよかがみ」に掲載できるエッセイのネタも、

これほどはなかったかもしれない。(いつも掲載ありがとうございます✨)

まぁ、その代わりリア充にしか書けないキャッキャウフフな話は皆無なんだけどさ←

受験生時、当初志望していた大学になまじ受かっていたら、

数年後には間違いなく病んでいただろうと確信できる出来事もあったし。

エッセイのネタが増えたという些細なことから、

「あっちの道に進んでたら、今頃詰んでたかも?」と思えるほどの大きなことまで

目の前では「絶望」のことも

案外、少し先では「希望」になってたりするから、

人生って、自分が思っている以上に上手くできてるものなのかも。

私なんだかんだで守られてるんだな、とすら思える。

そして多分それは、私だけの話じゃない。

 

その渦中にいる時は、割り切るのもなかなか難しいことではあるけれど

辛い現状があって、でもどれだけもがいても上手くいかないんなら、

そっちの道に私の幸せはないんだろうなって思えば、

少しは気持ちが軽くなる...んじゃないかな。

逆に、それこそ生まれてくる前に決めてきたような

「人生で必要な経験」だったら、

自分が望まざると、勝手にやって来ちゃうもんなんだから。

そういう意味で、「なるようになるし、なるようにしかならない」

って言葉、この世の真理を表している気がする。

 

是が非でも叶えたい夢があるなら

そのために必要な努力はすべきだと思うけど、

「人生はその気になれば何でもできるはず。できないのは、その人の怠慢だ」

的な風潮には、どうしても疑問を持ってしまう。

いや、上手くいかない時こそ(上手くいってる時もだけど)、立ち止まって、

長期目線で、その道を進むことが果たして本当に良いことなのか、

考えることが大事じゃないの?

 

何はともあれ、改めて思うのは、

親をはじめとする自分以外の誰かに、

自分の人生における重要な場面での決定権を委ねるのは

本、当〜〜に危険だってこと。

自分で決めて進んだ道がク●だったらまだ納得できるにしても、

他人に言われて渋々進んだ道がク●だったら、ク●しかないから。

まぁ、それも巡り巡って、

後から見た時には「自分に必要な経験だった」と

言える日も来るのかもしれないけれど......。

 

ガチガチにコントロールしようとしない、

思い通りにいく方が稀だという心構えでいる。

だけど自分の行動には責任を持つ。

人生とのほどよい距離感って、そんなところかしらねぇ。

水槽の中で自由に泳げることに自由はあるのか

日本ではどうか知らないけれど、

私が中学高校をすごした国では、

中高生の学校課題として、よくエッセイ(小論文)が課されていた。

もし日本ではそういうのがないのだとしたら、

画一的な答えを求める印象のある日本の教育よりは

個々の生徒の個性を重んじる慣習があるということがわかる。

ところがどっこい、学校教育の一環である以上、

「採点」という儀式から生徒も教師も逃れられない。

各エッセイには、採点基準が厳格に定まっている。

そして教師が定めたその基準を満たすように、

ピッタリと型に"ハマる"エッセイを書かないと、良い点は取れない。

まぁそうしておかないと、

書かされる側も採点する側も

頭を抱えることになりかねないので、

効率重視の観点では理解できる。

でも、私が一番首を傾げたくなったのは、

ハンバーガー手法」と呼ばれるものだ。

これは、上下にバンズがあり、その間に具が挟まっているハンバーガーに

文章の書き方をなぞらえたものだ。

最初に主張(上バンズ)

次に裏付け#1(具1)

次に裏付け#2(具2)

次に裏付け#3(具3)

最後に主張と同じ結論(下バンズ)

...この型の通りに書きなさい!異論なし!というもの。

 

......

うーーん、わかるよ、言いたいことはわかる。。。

おそらく一番理路整然としていて、

誰が書いても誰が読んでも主旨が伝わる文章の型だからね。

でも、これを初めて聞かされた当時の私は不服だった。

「何で裏付けが3つって前提なんだよ! 2つや4つじゃだめなの?」

「何で最初に主張したことをそっくりそのまま最後に繰り返さなきゃいけないの? 記憶喪失なの?」

「主張と裏付け以外に何も書いちゃいけないの? 味わいもへったくれもねーな!」

 

個人的には、文章を書く楽しさって、

最終的にどんな完成図になるか、

書き始めはもちろん、書いてる途中も

自分で全部は見えないところにあると思うんだ。

もちろん、ざっくりと方向性は決めて書くけど。

途中で、パズルのピースをあちこち動かしながら

互いにピッタリとはめていく感覚を、

ハンバーガー手法」では味わうことができないんだ。

(せいぜい裏付けの登場順番を考えるくらいか?)

「採点」がある以上、学校用のエッセイにはそれが許されていない。

お題もちゃんと教師から与えられ、ご丁寧に型まで指定されている。

...ぶっちゃけこれ、エッセイを課す意味、そんなにある?

「生徒が教師の指示にどれだけ従っているか」以外に何を見たいのかわからない。

今で言えば、これこそAIが得意とする文章生成法なんじゃないかな。

知らんけど。

という話は置いとくにしても、まるで、

「あなたたちは好きなように自由に泳いでください。

ただし、泳ぐのはこの5m×5mの透明な水槽の中です。

教師はいくつかの角度から見たあなたたちの泳ぎを採点します。

どの角度から見るかは、配布物に記載している通りです。」

って言われているようで、何とも言えないモヤモヤを感じた。

ハンバーガー手法は高校まで付きまとってきたし、

それが明示的に指示されたわけではないエッセイを課されても、

所詮は水槽が多少大きくなっただけにすぎなかった。

 

効率からは程遠いかもしれないけれど、

あーでもないこーでもないと考えながら、

自分の書きたいことを書きたいように書くのが

やっぱり一番楽しいし、

「書く」という行為を意味のあるものにできると思う。

教師の言葉を真に受けてハンバーガーなんて作り続けてたら、

今頃私は、新川由記としての活動なんて皆無だったろうし、

そもそも日記なんて書けやしなかっただろうね(笑)

(日記とは?と思った方はこちらもどーぞ!⬇️)

 

世界が逆さまにひっくり返るとき

間も結構空いて、タイミング的にどうなんだろうというのはあるけれど。

それはそうと、前回の続きを書いてみます。

ちょっと言葉足らずで意味不明なところもあったと思うので。

 

世の中の多数が「シナリオ」を信じてやまないと書いたけど、

どういう種族の人間がそのような傾向になるか考えてみた。

大きく、以下に分類できるかと思う。

 

① ただ多数に流されるのが楽だから流されてるだけのバカ

② これまでの人生で挫折を知らず、人に裏切られたり騙されたりした経験もなく、用意されたレールに疑問を持つ機会もないままそれをはみ出さずに歩いて来れた羨ましいほどお花畑な人

③ 挫折も裏切りも経験してるけど、そこから何も学んでいないただのアホ

 

...あ、口が悪くてすみませんね。

前回最初に「物議を醸すかも」と書いたのは、

私が書こうとしていた内容がどれも「シナリオ」が言うことを

否定することだったから、だ。

「シナリオ」信者にとっては見聞きしたくない、

というか、「本当にそうかもしれないとは今さら考えたくもない」受け入れ難いことばっかりだから、

そういう人からの反発は多かれ少なかれあるのは想定内よね。

 

この世界のあらゆる事象をどう解釈するかは、

まぁ言ってしまえば各人の自由ではあるんだけれど、

私個人としては、

偶然によって今ある状態が作られているわけではない

という考えを支持している。

何百年とか何十年とか前はどうだったかは知らないけど、

少なくとも私が見てきて知っているこの30年間弱に関しては。

だって、

その事象が疑いようなく完全に自然発生したものでない限り、

世の中がそうなってくれた方が都合がいい人間が必ずいるわけだから。

そしてそれが本当だと仮定すると、

当該人間は、何も知らない大衆には何も知らないでいてほしいわけだよね。

何も考えない、何も調べない奴らは、格好の駒。

多分、パッパラパーの駒に情けをかけるほど、彼らは慈悲深くはない。

 

無知って恐ろしい。

でも同時に知らないことって、とても幸せなことでもあるなと思う。

嫌味じゃなくてね、上記②の人とか、私からしたら羨ましい限りですよ。

世界が平和である限り、

そういう人たちは人生勝ち組と呼ばれながら、

寿命が尽きるその時まで、勝ち誇った笑みを浮かべていられる。

そう、世界が平和である限りは、ね。

安心しきっていた人生勝ち組さんたちが、

命や今の地位を脅かされるイベントが発生したら、どうなるだろう?

 

都合の悪い情報を頭ごなしに否定したり、

表面的なイメージだけで何の考えもなしにホイホイお上に賛同したり、

そうやって生きるのも自由なんだけどね。自由なんだけどさ。

そんなんじゃ、簡単に足元掬われるのが明らかじゃないかなぁ?

まるで家畜のようじゃん。

丸々太らせて、無条件になつかせて、食べ頃になったら食い尽くしてやるみたいな。

あっでもそんなことも起きるはずがないんだよね、多分。

だって上に書いたことは全部、嘘だもんね。多分。

 

あ、タイトルには特に深い意味はないです。

無知は罪。疑わずは命取り。

色々と物議を醸しそうな告白をします。

 

私は、

 

小学1年で学校の先生なんてろくなやつじゃないって悟ったし

(なお、小学5年時も再度実感した模様)

(一部のまともな先生方にはごめんなさい)

 

親や親戚の言葉や思考の薄っぺらさには子供心に辟易していたし

 

それでいて私を見て自分達を「立派な大人」だと主張する彼らが別の生命体にしか思えなかったし

 

そんな親を愛せない自分が悪い子みたいな見方をされるのが意味不明すぎたし

 

なぜ調べればすぐわかる(しかも実生活にほぼ役立たない)ことを必死で暗記させるのかわからなすぎて暗記科目は嫌悪してたし

 

自由回答で自分の考えを書いただけで❌されるのが不条理すぎて国語の勉強も茶番にしか思えなかったし

 

「友達とあまりつるまない人=可哀想な人」という目で見てくる人に「さっさとタヒね」と心の中で悪態ついてたし

 

世間やコミュニティで「いい人」ともてはやされる人は大抵偽善者って知ってたし

 

日本の政治なんてオワコンなのは子供の頃から薄々気付いてたし

 

世間のニュースに関心を持たないなんてけしからん的な風潮に疑問があったし

(だってどうせ嘘っぱちか、表面的でしかないから!)

 

そうはいってもマジで赤の他人の不倫だの不祥事だのどーでも良すぎたし

(ワイドショーのコメンテーターは大変だなぁと本気で思ってたし)

 

テレビが「流行ってる」と言えば反射的にとりあえず流行に飛びつく人の生態が理解できなかったし

 

現代医療は万能からはほど遠いのは痛感したし

 

何なら身近な医者は大半がまるでロボットのように思えたし

 

どれほど物質的に満たされていようと、必ずしも幸せを感じられるわけじゃないって知ってたし

 

インスタ映えするキラキラライフには興味がなかったし

 

良い大学に入学することも良い会社(いわゆる有名大企業)に入社することにもあまり興味がなかったし

 

「エリートサラリーマン」なんて言葉の響き自体に反吐が出そうな気持ち悪さを感じてたし(実は今も)

 

だけど小学校から高校まで、幸か不幸か優等生を演じることができてしまって

 

そんな「優等生」が良い大学に入学しない選択肢は実質的になかったわけで

 

そんで良い大学に入学したら、次は良い会社に入社しなきゃいけないみたいな空気に呑まれそうになって

 

それから色々あって、そこそこ社会の荒波にも揉まれてきて思ったのは

 

私が昔からずっと感じてきた上記のこと、

 

やっぱり何も間違っていなかったということだ。

 

......

世の中は理不尽で不公平なことばかりだし嘘で溢れている。

でも、「シナリオ」上はそんなことを言う人が嘘つきであって、

「シナリオ」が描く価値観に従って生きる人が正しいのであって、

「シナリオ」に逆らったり疑問を持ったりする人は頭がおかしい認定されて、

茨の道へと送られる。

結果、「シナリオ」の勢いは衰えることがない。

 

それでも私は思う。

私も「シナリオ」と自分の直感との板挟みで苦しめられた一人だけど、

それのおかげで今の自分があるようなものだ、と。

この社会で生きていく上で「シナリオ」という模範解答を

完全に手放して生きていくのは難しいにしろ、

私は私にできる範囲で

自分の直感を信じ続けて

「シナリオ」には心の中で密かに

あっかんべーしてやるんだってね。

【毒親サバイバーの結婚の仕方】出版のご報告

なんかうっすらと予告みたいなのはしてた気がしますが、

毒親サバイバーが結婚するための役所手続きの経験談って

誰が読むかもわからないブログだけにばーっと書くってのも

なんだかもったいない気がしていたので、

出版しましたよ!

電子書籍を!✨

おかげさまで、もう何作目かもわからんくなるほど(上下巻あるものとか英訳バージョンのとかあって1作としてカウントするかどうかわからんものがあるからなんだけど)また自著を出版させていただく運びとなりました。m(_ _)m

 

しばらくブログも更新がなかったので、

「さては新川由記、新婚生活にかまけて自分がライターだって忘れてるな...?」

とか思われてそうだったのですが、

安心してください! 書いてますよ!!🙌

まぁ、独身の一人暮らし時代より書く時間は減ってしまったのは事実ですが。

そして、以前より自分の中の優先順位として、

執筆のウエイトが下がってしまっているのは事実ですが。

ってそんなことは今割とどうでもいいんですわ。

(機会があればまたこれに関することは書いていこうかな...。)

 

前回の記事を書いてから間もなく本書の執筆を始めた感じなので、

「これだけ時間かけて、これだけの量?」

と思われるかもしれませんが、

許してください、

ゆーてそんなに長々と書くことねぇんだよ......!(言っちゃった)

結婚関係の手続きの渦中にいる時は、

その大変さが永遠に続くかのような錯覚さえあったのに、

いざ書き出してみると、

あれ、そんなにダラダラと記述することなんてないぞ...?

って気づいちゃったわけなんです。

それから、

ボリュームに対して書くスピードは遅い方なんです、

それが新川由記なんです。

お忘れなきよう。

 

そんなこんなで、書き上がりは意外とあっさりとしたものでした。

「んー、もうこれ以上書くことないよなー?

ってことは、これで出版かー!」

みたいな。^^;

これまでの出版までのプロセスでは、

EPUBに変換するまで何度か目視で

誤字脱字や整合性のチェックなんかするわけでして、

そしてそれが地味に面倒くさいわけなんですが、

今回はそれもあっさりと終わってしまい、

正直「1冊出版した」感は薄いです。

まぁ、それもそうか。

ボリュームとしてはこれまでの自著の半分以下なわけだし。

 

と、まぁ、ボリュームに関して散々自虐してきたけど、

だからと言って「本書は読む価値あんまない」な〜んて思ってもらっちゃあ困るわよ。

本書では、

ブログで書いていたような「個人的な感想」とか「相手両親への挨拶」はカットし、

あくまでも「手順書」風な体裁というか、

「情報を必要とする人が必要と思われる情報に素早く気軽に届くための入口」

みたいなのを意図して執筆したので。

実際は「万人の毒親サバイバーに当てはまる結婚の手順書」なんて

作れるわけがないのを知っていながら、

毒親サバイバーに向けた一般論としての結婚の手順書」を書こうとした、

なんていうのも自分でも意味不明な話ではありますが。。。

 

ちなみに、諸事情により、これまでとは別のデザイナーさんに

表紙を今回は依頼しました。

いや、特に深い意味はないんですけど、FYIとして、ね。

 

まー、必要な方が必要なときに手に取っていただければ幸いです。

一応、女性男性関係なく、何かしらお役に立てる内容にはなってるかと思います。多分。

というわけで、今日のところはこれくらいで。🖐️

 

新川由記

毒親サバイバーの結婚事情③【新しい家族ができるということ】

まずは過去記事からどうぞ↓

 

今は、「結婚=家同士の繋がり」という価値観は

昔よりは薄れてきていると思う。

とはいえ、法律婚を選んだ以上、

私にとって新たな家族となる人たちが発生するし、

彼らも私を家族として迎え入れることになる。

このことから、「新しい家族」という存在も

結婚する上で避けては通れない道となる。

 

 

驚くべきことに、とでも言うべきなのだろうか。

彼との結婚自体に不安は全くと言っていいほどなかった。

それでも、唯一不安があったのは、

「新しい家族とうまくやっていけるだろうか」

ということだった。

頭ではそんなことないとわかっていても、

私の中では、「家族=色々とめんどくさい人たち」

デフォルトとして刷り込まれてしまっていて、

本能的に拒否反応を起こしてしまうのだ。

どんなコミュニティにでも容易く

すっと懐に入ってしまう才能を持つ人ならともかく、

人見知りのこの私のことだ。

一大事であることは言うまでもない。

 

でも、幸いなことに、結婚が決まる前から、

彼の家庭環境は良いものであることは聞いていた。

彼の穏やかで影のなさそうな人格を見ても、

少なくとも私の出身家族の何倍も良い家庭環境だろうなと

いうことは、推測できた。

そうは言っても、、(と不安は尽きない)

結局は人間対人間だ。

どんなに良い人たちでも、馬の合う合わないはある。

来たる顔合わせ(ご挨拶)のことを考え気が休まらない中、

「何回かに分けてになるけど、親から結婚のお祝い金をもらえるよ」

と彼から報告があった。

「お祝い金」の話を聞いて、私は、そうか、と気付いた。

私は本来手に入れられたであろう実家からのお祝い金を、

それと、ひょっとしたらの生前贈与なんかも、

実家を捨てたと同時に放棄したも同然なんだ、と。

もちろんそれを承知の上で、

それでももう毒親と一切の接触を断つ方が

圧倒的にメリットがあると判断して

実家を捨てるに至ったんだけど、

もしもまだ交流があったとして、

そして結婚報告をしていたとして、

一体どんな対応をされていただろう?

お金にだけは困っていなかった家庭だから、

少なくとも自分たちの面子を保つためなら、

何百万、ひょっとしたら4桁だってお祝い金を積んだだろう。

でも、そうされたところで

「お祝い」の心を私が感じられたかというと怪しいし、

後々大きな代償が付いて回るのは火を見るより明らかだ。

「夫の粗探し」に始まり、

夫婦の決めることにいちいち口出し、

近隣に引越してきてまで監視、

孫が出来たら「面倒を見ててあげる」という名の洗脳教育、

最期が近付いたら、当然介護地獄、

「育ててやったんだ」を盾に、わがまま放題の痴呆性老人の完成。

なんでだろう、こんなに鮮明に見えてしまうんだよ。

夫のほうは、最初の方こそ

「ご挨拶くらいは行った方がいいんじゃないか」

とかってお花畑なことを言ってたけどね。

もうね、ここまでわかりきってるような人たちに、

少しでも関わらせるだけ馬鹿を見るってもんよ(笑)

だから、当然最初からいないものとしてスルー。

両家顔合わせもないし、結婚式もなし。

(結婚式は、元々私も夫も「いらない派」だったから、

っていうのも大きいけど。)

 

で、緊張の中迎えた彼の実家でのご挨拶の日。

ご両親には、彼から予め、私の親の話はしないようにって

伝えておいてくれたことは聞いていた。

ご両親はもちろんそれを遵守してくれていたし、

何なら、仕事の話含め、私のことを詮索するようなことは一切質問しなかった。

これだけでもすごいことなんだけど、

ご両親の話の節々からは、息子のことを

本当に大事に思い、愛してるんだなぁって感じられた。

(かと言って、嫌味な息子自慢でもないのがまたすごい。)

私の親がごくたまーに「娘のことを愛してるから♡」的なことを

言ったときに感じたような、違和感大アリの気持ち悪さは、

短い滞在とはいえ、その間彼らからは全く感じられなかった。

何というか、息子のことを全面的に信頼してるんだよ。

娘を信用せず、「愛」という名の束縛で精神的に縛り付けていた、

私の毒親とはそもそも格が違うんだと思った。

精神的に裕福な、こんな親に私もなりたいと思った。

 

緊張しっぱなしで一言一句覚えていないけど、

「2人がずっと笑顔でいられる家庭を築いてくれることだけが私の願いだよ」

的なことをお母さんが言ってくれたときは、

油断してたら本当に泣き出してしまっていたくらい、

グッと来るものがあった。

血の繋がってるはずの私の親族は、

無条件に私を受け入れてくれることはなかった。

少なくとも母親は。

でもここでは、

私の出自がどうとか、経歴がどうとか詮索することなく、

息子さんの結婚相手ってだけで、

私を受け入れてくれる人たちがいる。

私の母親からは、とてもそんな言葉など出て来ないだろう。

あるとしても、彼や私に散々嫌味を言った後で、

思い出したかのように、白々しく、ならあるかもね。

彼の実家からの歓迎は、

からしたら、「嬉しい」じゃ言い表せられないくらい幸せなこと。

ありがたいことこの上なかった。

と同時に、こんな感情も湧き上がった。

こんな家庭環境の私が相手でごめんなさい。

両家顔合わせができなくてごめんなさい。

ルーツもよくわからないような相手に、

大事な息子さんを差し出すようなことさせてごめんなさい。

なんか、とことん自分の実家が情けなく思えた。

皮肉なことではあるけれど、

彼の実家の温かさを知れば知るほど、

私と私の実家(家系)を繋ぐ、

切り離すことのできない鎖の存在を思い出させられた気分だ。

 

そんなこんなで、ご挨拶は平和に終わったのであった。

「嫁姑問題に巻き込みたくないから」という先方の意向で、

あまり濃密な家族付き合いはないとは予想されるけど、

まぁ今後どうなるかしらね。

今のところ、特に不安要素はもちろんないと思っているけれど。

 

 

一旦ここで新川の結婚記事シリーズは終わる予定ですが、

結婚生活自体はこれからもずっと続くわけですし(きっと)

これから先も色々と思うところや学びも出てくるでしょうね。

そのときはまた、ぜひお付き合いいただければと思います。

毒親サバイバーの結婚事情②【役所手続きという大きな壁】

まずは過去記事からどうぞ↓

 

結婚とは切っても切り離せない、役所手続き。

まぁ、特に私のような状況の人なら、

事実婚という選択肢もなきにしもあらずなんだろうけど、

やっぱり私は

①「普通の家庭」に憧れがあった

 (↑事実婚家庭が普通でないからダメだ、と言いたいわけではないので悪しからず)

毒親との忌々しき繋がりを少しでも薄めたかった(旧姓など)

などの理由から、法律婚を選びました。

 

 

と、なると、当然戸籍制度の壁が立ちはだかるわけです。

再度の言及になりますが、私は住民票の支援措置をかけています。

(「閲覧制限」と言うより一般的なのかな?)

もちろん、同時に戸籍の附票もロックされた状態(のはず)。

でも、戸籍そのものとなると話は別。

結婚に伴って、私が毒親の戸籍から抜けたら、通知が行ってしまう...?

とかって考えてビビってしまい腰が重かったのですが、

とりあえず支援措置を受けている役所に

相談してみないと何も始まらないので、電話してみました。

(最初は、電話代がもったいないという思いと、

APD疑いの私には電話越しの込み入った話が超絶苦手というのとで、

メールでの問い合わせを試みました。

でも、案の定、「メールでは回答できないので電話で」とのことで撃沈。

「なりすまし防止が目的なら電話でも同じだろうに、なぜ?」と

軽く疑問に思ってはいたのですが、

後で聞くところによると、文書開示請求があった際にメールも対象になるからだとか。

まぁ、メールのおかげで

いざ電話したらスムーズに話が進んだってメリットもあるので、

自己責任で同じようにされてみてもいいかもしれません。)

 

ちなみに、結婚前時点の私の状況は以下の通りです。

人それぞれ状況が異なり、役所での対応も異なってくると思いますので

あくまでも参考程度にお願いいたします。

  • 結婚まで、私はA県在住(支援措置を受けている)
  • 結婚まで、相手はB県C市在住(支援措置を受けていない)
  • 結婚後少し後に、B県D市で同居(ほぼ同時期に引越し)予定
  • 私が受けている支援措置が、入籍日の少し後に更新期限を迎える
  • 私の本籍地は実家にいたときから変わらず、実家のままである(E県)
  • 相手の本籍地も実家である(F県)

※あ、便宜上とかとかって書いてますけど、

必ずしもその名称がつくわけではないので、ご了承を〜。

 

ざっくり結論を言うと、

  1. (直接改めて確認したわけではないものの、話の流れから推測するに)支援措置を受けていても、血縁関係の人が加害者なら、結婚の事実(入籍日、届出場所)や配偶者の基本情報(従前戸籍含め)は閲覧可能である。
  2. 上記1が故に、婚姻届の提出は、現在/今後の住まいが推測される場所は避けるべき。支援措置を受けている人の本籍地(=E県)での提出なら、支援措置の件を把握しているし、比較的?低リスク。(事前に戸籍謄本を用意する必要もないしね。)
  3. 新本籍も言うまでもなく、現在/今後の住まいが推測されない場所にする。
  4. 配偶者の「従前戸籍」が実家等である場合、上記1が故に、万全を期すのであれば、分籍・転籍して加害者が配偶者の実家に凸するリスクを低減するのも手である。(※1 ただ、当然配偶者の協力は必要になる。)(※2 支援措置を受けている人が分籍したところでどこまでも辿れてしまうため、こちらは効果が薄いとのこと。)
  5. 配偶者も一緒に支援措置を受ける場合(@B県D市)、その申し出は、入籍後に同居する際に、転入届提出と併せて。(※1 もちろん、事前に転入先の役所に相談はすべきであることは言うまでもない。)(※2 配偶者が既に住んでいる地域に引っ越すとなると事情は違ってくるみたい。上記はあくまでも、2人で結婚を機に新しい土地に引っ越す場合の話である。)
  6. 支援措置の更新手続きは、入籍後に私一人で行う(@A県)。(故に、配偶者がA県の役所に行って何かすることはない。)

こんな感じかなー?

......うん、まぁ、かなーりややこしいわね(笑)

ややこしいが故に、事前にメールである程度の状況を共有していたとはいえ、

電話したらその場で回答がもらえるわけではなく、

いくつか追加の質問をされた後、

昼休憩挟んで3時間後とかに改めて回答をいただく、

といった形でした。

 

ちなみに、ただでさえサラリーマンは

役所の開庁時間に頭を悩ますことが多いわけですが、

支援措置関係の電話受付時間は

それよりさらに厳しめの時間設定である可能性が高いため

(少なくともA県の私の自治体は。。。)

在宅勤務かつ比較的暇な日を狙うか、

諦めて半休とかするしかないのが地味に痛いです。

私は前者でやってのけたけど(上司よゴメンね)、

ブラック社畜とかには厳しい世界よね......。

 

あと壁といえば、

私たちの入籍希望日が閉庁日だったってことも

めんどくささに拍車をかけました。

  1. (確実に受理してもらえるよう万全を期して)開庁日に、婚姻届の事前審査を依頼しに行く(@E県)
  2. 入籍希望日に婚姻届を提出(@E県)
  3. 婚姻届提出後の開庁日に、婚姻届受理証明書をもらいに行く(@E県)

開庁日の提出だったら、上記全部一回の来庁で済んだんだけどね。

仮に、A県の役所で事前審査してもらったところで、

私の戸籍謄本を持って行かないことには(=E県で戸籍謄本を入手しないことには)、

そこは無審査状態で一か八かの提出に挑むことになるので......。

(実際、どちらの戸籍謄本も持たずに一度A県の役所に事前審査に行き、

「戸籍謄本がないなら、新本籍地の審査しかできない」と指摘され

初めてその事実を知った人間がここにおります🙌(笑))

まぁ、閉庁日に婚姻届を提出したいっていうのは

完全に私のエゴであるわけだし、

閉庁日の提出につきまとう苦労は私だけのものじゃないだろうし、

結婚記念日が毎年ゆっくりお祝いできる日になったってだけでも丸儲け!

...とでも考えなきゃやってらんなかったのが実情ではあります(苦笑)

普通に考えて、

◯年間連絡を絶つほどの相手である毒親が潜んでいるかもしれない地域に

わざわざ三度も足を運ぶとか、正気の沙汰じゃありませんから(笑)

E県に移動するだけでも、時間も交通費も食うってのに。

実家や毒親の行動圏が役所からそこそこ遠いってことと、

A県からE県がめっっっちゃ遠いってわけではないというのが、

ここではまあまあ救いだったわけですがね。

 

ちなみに、

「ちょっと慎重すぎじゃね?」と鼻で笑われそうだし

何なら自分でもちょっとそう思ってしまった上記1番の来庁ですが、

結果的に行ってよかったと思えたことがありました。

事前審査を担当してくださった方が、

私の戸籍が閲覧制限対象であることに気付き、

『申入書』というのがあるのですが......」

と教えてくれたのです。

数年間支援措置を受けてきて、そんなものは初耳。

自治体によって取り扱いの有無はあるのかもしれませんが、要は

婚姻届提出後速やかに(開庁日に)、

支援措置決定通知書のコピーとともに提出することで、

加害者から届の閲覧・開示の請求があっても

住所欄や欄外の連絡先の記載が見えないように

処置をしてもらうための申請書です。

そもそも婚姻届の閲覧請求ができることすら知らんかったから、

そういう発想すらなかった。。。

どうせ3番の来庁で提出後行く予定はあったし、

迷うことなく、ありがたく申入書をいただきました。

 

まぁ、こんな感じで役所手続きは大変面倒くさいものでしたが、

全部終わった後に手に入れた、

婚姻届受理証明書とか、住民票とか、

公文書に自分の新しい名前が印字されているのを見て、

感動もひとしおでした。

この記事が、同様の状況を迎えている方々の参考に

少しでもなれば、幸いです。