草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

「親ガチャ外れたわw」も「親ガチャだなんて親がかわいそう!」も本質は一緒なのではって話

最近のとある記事がきっかけで、

『親ガチャ』について話題になっているらしい。

自身の経験に基づいて、毒親問題について考えた電子書籍を販売している私として、

何かしら記しておいた方がいいかな〜と思い、

つらつらと思うところを書いてみる。

 

まず、当たり前のことかもしれないけれど、私、新川由記は

『親ガチャ』というのは紛れもなく存在すると思っているし、

そのことを毒親育ち/非毒親育ち関係なく

全人類が認めるべきことだと思っている。

そして、『親ガチャ』が当たったか外れたかで言えば

外れた方である当人だからこそ、

その言葉の持つ意味も、それなりには理解していると認識している。

だから、『親ガチャ』という言葉を表面的にしか捉えずに

愚痴の一環で「親ガチャが〜」と乱発している人とか、

「親ガチャだなんてひどい!」と表現そのものを否定している人とか見ると、

まあまあ切ない気持ちになるんよ。

 

『親ガチャ』の議論がなされるときって、

大抵経済的な話と、それに付随して学歴の話になることが多い。

確かにそれがわかりやすい物差しになるし、

生活に直結するものだから多くの人の関心を集めるのだろう。

でも、上記の「表面的にしか捉えていない人たち」は、

それ以外の根深い問題があることが見えていないのかもしれない。

私自身は、経済的な面、与えられた学歴だけ見れば、親ガチャ成功かもしれない。

それでも、もう一生親には会わない覚悟をしてまで

家を出て行方をくらましたのには、

それだけ親が私に与える精神的ダメージが限界に来ていたからであって、

このまま親の近くにいては、

高確率で自分の人生が丸ごと親に支配されることを悟ったからである。

それを「十分与えられて育ったのに、子供側の身勝手な甘えだ」として片付けられてしまうのは、

何だか違うと感じてしまうのですよ。

本音を言えば、

毒親を擁護して「子供側の甘えだ」って言う人には、その時点で

わぁ〜あなた毒親の素質がありますよオメデトウゴザイマス

と言って差し上げたいくらいだけど。

 

そういう類の発言をする人は、

現実から目を逸らしているだけってことを自覚しましょ、ね?

口にするのも憚られるくらいひどい毒親はこの世に大勢いるのに、

そういった現実に綺麗事で蓋をしている、

頭お花畑の何ともおめでたい人たちなのですよ。

 

いずれにせよ、気軽に「親ガチャがどうのこうの」で

ワーワー好き勝手言える時点で、

その人は親ガチャに恵まれている分類の人なんだろうな、

と私は思ってしまう。

本当に深刻に悩んでいる状況だったら、

軽々しくその言葉を出すことすらできないからね。

(私の書籍では『親ガチャ』という単語を一部使ってはいるものの、

それはあくまで文脈のキャッチーさと毒親への軽蔑の意図を込めての言葉選びである。)

何だったら、本当の毒親なら

「うちの親、実はひどい人たちなのかも?」と

子供に疑わせる余地も与えないくらい

ガッツリと子供を洗脳するからね。

「ひで〜親だなw」と思えるってことは、

「ひどくない親」もいる(そしてその親は大抵自分の親)

ってことを知ってることの裏返しなわけで。

親の性善説を信じていられる時点で、

その人は親に恵まれていることに気付こうよ。

そして、そういう人たちによって、

本当に悩んでいる毒親育ちが

追い詰められることのない世界が理想ではあるけどね。

悲しいかな、やはり、毒親育ちとそうでない人たちの間には、

決して埋まらない溝って、あるんだろうな。