草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

人間にあまり関心がない人間にとっての(ゆるい)死生観

※別に死にたい願望があってこれを書いているわけではないので、それだけは先に明言しておきます。

 

生きとし生けるもの全てが通る道である以上、

誰しも『死』について考える瞬間というのは

人生のうち何度か経験すると思う。 

 

私が子供の頃からぼんやりと思い描いている、理想の死に方というのがある。

私は自分の死んだ姿なんて誰にも見られたくない。

だから自分が死ぬときには、

失踪するかのようにある日ふといなくなりたい。

身近な人たちは、私がしばらく姿を見せないことで

何があったのかを静かに悟ることになる。

誰も嘆き悲しむことはしない。

誰も葬儀や法事に手を煩わすことはない。

 

◯回忌と称して親戚一同何度も集まる風習も、

家族ぐるみで休日に駆り出されるお墓参りも、

私が子供の頃から我が家では当たり前のように続いてたものの

未だにその意味が理解できていない。

世間体とか伝統という名の惰性とかにしか思えなくて、

ずっと冷ややかな目で彼らを見ながら、

独立するまで渋々と茶番に付き合っていた。

 

もしも私がこんなことを言おうものなら、

親戚一同、どころか近所の関係ないオバチャンたちもが

「ご先祖様のバチが当たるわよ、この恩知らず、恥知らずめ」

とか何とかいちゃもんつけてくるんだろうな。

 

でもって、

半日がかりで移動した先にある石に向かって手を合わせて、何が良い?

故人を偲びたいのであれば、場所はどこだって構わないはずだし

ただの骨(というとまた叩かれそうだが)を

ご立派な石碑を建ててまで後世まで守りたいものかね?

 

こんなこと言うと非情に聞こえるのは承知だが、

そもそも人間は死というものに対して、

意味を求めすぎている気がしなくもない。

生命体がいつかは死ぬというのは

宇宙が始まったときからわかりきってることなんだから、

いい加減慣れようぜって 思うのです。

(実際はそう割り切れないのが人情なんだろうけどね...)

 

この世の人間はこの世のことで手一杯なんだよ。

どうしてこの世を去った過去の人間にまで

至れり尽くせりしないといけないんだろう。

おそらくやっている側の人間の自己満足にすぎない

と言われれば、それまでなのかもしれないね。

故人の霊というのがいたとして、

その霊のために法事だのお墓参りだの生真面目にやって

「良いことしている」感に陶酔している人間を見たとして、

その霊はどんなことを思うんだろうね?

...え、こんな想像は非現実的だって?

じゃあ律儀に故人を供養しているそこのあなたは、

そもそも存在しない、あるいはあなたのことを見てやしない

霊にずいぶんと尽くしていらっしゃるんだね。

 

というのはちょっと煽りすぎた感があるけど、

いずれにせよ、こういった自己満供養は

毒親の子供に対する依存との共通点がなくもないなぁと

感じた次第だ。