草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

「個性」という名の「無個性」、「無個性」という名の「個性」

人間というのは、無意識的にでも

「わかりやすさ」を求めてしまう生き物なのだと、時折感じさせられる。

「何を考えているかわからない、毒にも薬にもならなそうな人」

「過激な発言もするし感情の起伏も激しいけど、何を考えているか一目瞭然な人」

目の前にいるとして、

さてどちらに関心を持つか?となると、

不思議と後者に惹かれてしまうのが大多数の人間じゃないだろうか。

 

これはネットの世界にもそのまま当てはまるわけであって、

インターネットという大海原で自分を見つけて、注目してもらうためには

その他大勢と何らかの形で差別化できていないといけないわけだ。

だから自己顕示欲が暴走しちゃった一部の人たちは、

犯罪動画を上げたり 経歴詐称なんかしてるわけなんだけど、

今回語りたいのは別にそういった残念な人たちについてではなくて。

際立った差別化なんてできないし しようとも思わないまでも、

何らかの形でネット上で発信活動をしようとなったら、

多かれ少なかれ、「セルフブランディングという必須作業の壁に

いきなりぶち当たることになるのだ。

例えば、私ももちろんその中の一人なのだが、

おそらく多くのブロガーが最初に悩んだだろう、「ブログのタイトル」

「自分のコンテンツへの名付け」という一世一代の大仕事を、

まだ方向性も確立していないことが多い、初期の初期に行わなければならない。

自分の扱うテーマについて端的に、かつある程度の独自性を持って表現することが求められるとか、もはや出鼻からラスボス出現ですかっていうレベルよ。

ペンネームやハンドルネームを持つ場合はそこでも、

それなりのセンスが求められるかもしれない。

※ちなみに、私、新川由記のペンネームについては以下の記事参照。

 

でもって、自分含めほとんどのネット民が当たり前のようにやっている

「セルフブランディング」という名の「セルフカテゴライズ」、

いずれは自分自身の首を締めることにも繋がりかねないのでは?

なんて、考えてしまう。

そもそもカテゴライズすることって、

その時点で自分を自分でカッチリと定義してしまっているよね。

自らを、形状が固定された枠の中に、押し込めているようなものじゃないかな?

(例えば、私のブログのタイトルを掲げている以上、バリキャリ系の記事を書くことは憚られるわけだ。

まぁほぼ絶対書こうとも思わないだろうし、それをわかってるからこそこう命名したわけなんだけどね。)

 

もちろんその方が読者やフォロワー(潜在的・顕在的両方)ウケはいいのだろう。

でもその「わかりやすさ」の代償って、

あまりに大きい気がするのは私だけかな。

私の著書でも「二項対立で考えるな」という話をしている通り、

世の中ってそんなシンプルなものじゃないよね?

そうじゃなくても、私の「OL」という肩書き一つとっても、

あと何年続くか、それとも何十年と続いてしまうのか、わからないものなのだ。

なのに「わかりやすさ」が正義とされる世界では、そんな正論は通らないわけで。

ジレンマに陥るわけですわ。

 

他にも、私の話をすると...

私の性格ってどんな?と自分に問いかけたところで、

「引っ込み思案」「現実主義」「繊細」

とかいくつかそれっぽい形容詞は出てくるけれど(そしてどれも間違いではないけれど)、

その一方で

「行動的」「楽観的」「大雑把」

な私も共在していることも確かに事実なのだ。

そもそもどれも人前で「私は、◯◯な人間です!」なんて自己紹介するには

微妙すぎるラインナップだから敢えて言うことはないっていうのもあるんだけど、

一方が明確に肯定されてしまうと、もう一方の私は存在しないと強くほのめかしている、どころか何も言わずして否定するのと同等だ、

と聞き手(読み手)側は当然のように理解する。

肯定されたほうと逆の一面を第三者が垣間見たとき、それは「矛盾」と捉えられる。

でも実際はそのどちらもが自分の一部なのであって、

そもそも「◯◯な人間」として定義することの方が不自然なのだから、

何ら矛盾はしていないのだ。

だからわざわざ自分から自分を定義しに行って、半身を失うような愚行は極力避けたいと考えている(あくまで個人の考えであって、自己紹介で性格を明言することを否定する意図はない)。

そういう理由で、就活のときにやらされた性格診断とかも何気にしんどかったなー...。

「矛盾」する回答があったら評価が下がるとか、普通にプログラムされてそうだし。知らんけど。

 

だからか、今でも「自己紹介して」とかって言われると少し身構えてしまう。

自分でも、自分がどういう人間なのか未だにわからないんだもん。

だからこそ、わかりやすく、かつ客観的事実である「肩書き」にみんな走りたがるのかもしれんけど。

私は、今の自分を「ライター」とか「ブロガー」とか

定義していいのかすら、確信が持てていない状況。

だから仮に将来、私がどこかで紹介してもらえるくらいのライター/ブロガーになれたとして、

私は何系ライター/ブロガーとして定義されることになるんだろう。

全くと言っていいほど想像がつかない。

でも、

仮に長い活動の果てに、自分の意図していなかった方向のカテゴリーに収まっていたとしても、

別にそれはそれでいいんじゃない、と思っている。

三者からカテゴライズされることは、不思議と抵抗を覚えない気がするんだ。

それはあくまで「気がついたらそう(認識されるまでに)なっていた」という結果であって、

自分を半ば無理矢理、型にはめ込みに行って作り上げたキャラクターではないからね。

 

だから何が言いたいのかっていうと、

キャラが確立していないからこそ醸し出されるっていうか、

湧き上がるキャラというのもあると思うんよ。

言ってしまえば「無個性」という名の「個性」だってあっていいんじゃない。

だから思考回路ショートしちゃってるその辺の人たちは、

最近の若者は個性がないだのと騒ぐ前に、

「無個性」の中の「個性」を見つけられない自分の至らなさに気付いた上で、

ちょっとはそういう人にも寛容になろうゼって話ですよ。

【告知】子ども虐待防止策イベント2020

このブログでイベントの宣伝をする日が来るとは少し前まで思ってもいませんでしたが、一応させていただきます。

イベントと言っても、私が開催しているとかではなく。

 

ライターの今一生先生が手がけていらっしゃる

『子ども虐待防止策イベント2020』が、

11月1日の沖縄会場から12月20日の神奈川会場まで、

全国7箇所にて行われます。

f:id:niconicocolo:20201031144811j:plain

実は私も、この中の一つの準備を少しお手伝いさせていただいています。

(ブログの更新が最近サボり気味だったのはこのため…というのは、冗談です。)

 

気になるイベントの内容は下記の通りです。

★虐待サバイバーの「親への手紙」の朗読(30分/10分×3人)

→親から虐待された当事者が親に向けて書いた手紙を読み上げる

★日本の子ども虐待防止に関する講演(60分/ライター・今一生先生) 

→省庁の公式統計や関連法などを元に、虐待の現状と防止策を解説

★これからの虐待防止策に関する議論(60分/市民×サバイバー×政治家)

→法制度でできることから、民間ビジネスとしてできることまで

今先生のブログより抜粋)

この手のイベントでありがちな、自称"専門家"が一方的に持論を喋って、何か解決した気になって終わるようなものとは一線を画することがおわかりかと思います。

 

どうして、私が今先生のこのイベントを少しでもお手伝いしようと思ったか。

それは、現在執筆中の2冊目の著書と大きく関係があります。

元々日本社会における子供の虐待に問題意識があり、

一応虐待を経験した当事者である身として、

著書を執筆するなど私にできるところから、

世間に呼びかけていきたいという思いはありました。

でも、いざ執筆を始めてみると、

「サンプル数1の狭い視野の状態でこのまま書き進めていいものか?」

という疑問も常に頭のどこかに存在していました。

そりゃあ、一言で「虐待」と言っても、

それぞれが経験してきたことは千差万別であって、

一つ一つを考慮していたらキリがないのはわかっている。

それでも、私にはもっと見るべきことがあるのではないか?

そう考えていた矢先に、今先生のこと、そして今回のイベントのことを知ったのです。

今先生のお話しされる内容を聞いていて、

ここまで深く共感できることを仰る著名人を初めて目にしたと感じました。

表面的な一般論しか述べない"専門家"なんかよりよっぽど、

社会を根本から変えるための実務的な活動をされている。

これは、虐待問題により直接的に関わるチャンスだ!と思い、

今先生に連絡を取り(お忙しい中、丁寧なご返信をいただきました)、

スタッフとして参加させてもらいました。

 

ちなみに、僅かながら今先生への応援の気持ち&自分の中のサンプル数を増やすために、

こちらの書籍もポチらせていただきました。

真面目な話、大人から子供まで、識字能力のある日本人全員が読むことを義務化しちゃえば、
ちょっとはマシな世の中になるのでは?…と思うくらい、
一度は読む価値のある書籍だなと思いました。
まぁ、読んだところで「自分には関係ないし」と、
見たくないものには蓋をして切り捨ててしまうような人種には、
何を見せても響くことはないのでしょうけど。
(そういう人に限って当事者だったりするから厄介なんだけどね〜…。)
 
「自分はもう子供じゃないし、子供もいないから関係ない」
と考えていらっしゃる方がいたら、今一度考え直してみてください。
あなたもかつては子供だったわけです。
そのとき、大人からしてほしかったけどしてもらえなかったこと、
子供だからってだけで理不尽な目にあったことも、きっとあるんじゃないでしょうか?
そんな子供時代の自分から目を背けたままで、あなたは幸せでしょうか?
 
弱い立場にいる(いた)人たちの声を切り捨てるのは簡単ですし、
それも個々人の自由と言ってしまえばそれまでなのかもしれません。
それでも、もしこれを読んでくださっている方の中に、
少しでも心に刺さるものがあるならば、
『子ども虐待防止策イベント』に足を運ばれてはいかがでしょうか。
近くにお住まいでなかったり、日程が合わない場合でも、
カンパだけでも大歓迎です。
 
参加には予約が必要なので、ぜひお早めにご予約くださいね。
(詳細は、各開催地のブログにてご確認ください。)
 
新川由記

最高のカウンセラーとは

以前宣言した、例の日記帳の整理をしていると、

「これを書いていた当時の私に今の私が現れて、アドバイスできるとしたら、何て言うだろう?」

と考えながら転記作業をしている自分に気付かされる。

昔から私はあれこれ思い悩んでいるような子供だったし、

日記に書くことと言ったら、逆に悩みくらいしかネタがないようなものだった。

そんな当時から時間も経って、様々な経験も積んでいるから、

今ではその悩みを大分俯瞰して見られるようになったのは間違いない。

それでいて、実際にその悩みを経験した張本人なんだから、

普通に考えれば、正に最高のカウンセラーになりそうだよね。

 

ところが、だな。

割と真剣に想像してみると、

どんなに正論を「経験者」から諭されたからって、

それで当時の私の気持ちが安泰になるとはあまり考えられない。

 

ちょっと極端な例だけど、

学校という場所に日々居心地の悪さを感じていた昔の私に、

以下のような言葉をかけるとしよう。

「そんなに学校が嫌なら、辞めちゃってもいいんだよ!

学校なんてどうせ大したこと教えないんだし、

そんな特殊な村社会みたいな環境で消耗するくらいなら、

自分で稼げる方法を見つけてさっさと社会に出てしまった方が、ずっと有意義だよ!」

実際、今の私の考えはこれに近い(多少大袈裟に書いているけれど)。

もし当時の私がこれを言われたら、どう感じるだろう。

「実際あなただって、何だかんだ我慢して大学院まで出てしまって、

今までレールの上を歩く人生を送って来たじゃないの。

そんな簡単に逃げられるものじゃないって、わかってて言ってるの?」

未来の自分の経歴が見えていたら、こんなふうにカウンターを食らわすだろうな。

いずれにしても、そんなアドバイスは求めてない、と言われそうだ。

現実的に状況を改善するにはどんな行動が考えられるか、

もしそれが難しそうなら、せめて心が崩壊しないために、どんな思考を持っていればいいか、

おそらくそういうことを聞きたいだろう。

でも残念ながら、「現在の私」視点からしたら、

しょうもないクラスメイトの取り扱い方法とか、

スクールカーストの少しでも上位に這い上がる方法とか、

どうでも良すぎて、一緒に真剣に考えたり、アドバイスする気になんて、とてもなれやしない。

 

こんな感じで、時間軸での立ち位置が違う以上、

同一人物と言えども、物事の見方や考え方にズレが生じてしまうものだ。

私がこんな感じでブログに書くような内容一つ取ったって、

当時の自分からしたら無責任とも取れるアドバイスを、

平然と頭の中で生成して、無意識に頭の中でドヤってしまっているだけなのかもしれない。

多分だけど、今現在の自分の生き方に自信が持てない人ほど、

こういう感じの的外れなアドバイスを、

過去の自分だったり、他人だったりに、

押し付けたがる傾向があるのかもしれない。

「今の自分」ですら「過去の自分」とはかけ離れた存在なのなら、

「他人」はなおさらそうであるのは、言うまでもなく。

それを自覚できないまま、

「自分のアドバイスを受けて、相手はその通りに変わったのだ!私は、なんて善人なんだ!」

と喜ぶような頭空っぽのイタい人とは、

あまり関わらない方が身のためだろうね。

 

じゃあ最高のカウンセラーがいるとしたら、それはどんな存在か?

と考えてみると、「今、ここにいる、この体を持った、この私」でしかないのではないだろうか。

「今ここで悩んでいる私」と二人三脚でどこまでも付き合ってくれる「もう一人の私」がいなければ、

おそらく誰にカウンセリングしてもらったところで、

虚しさは拭えないのかもしれない。

私の場合、それが日記帳であったと言えるんだ、と

ここに来てやっと、「私にとっての日記帳とは」と「その理由」を、

(「心の支えとなる」以外に)言語化できた気がする。

niconicocolo.hatenablog.com

偽善者は無関心者より残酷だと思った話

何かの巡り合わせなのか、小・中・高時代とそれぞれ、

面倒くさい先生に少しでも目をつけられ、絡まれたことがある。

と言っても、悪いことをして叱られるという類のものではなく、

「どうしたの?私に何でも相談してちょうだい」的な感じで、

多かれ少なかれ、まとわりつかれたことがあるってものだ。

いずれも、土地も雰囲気も全然異なる学校で起きたのだが、

共通していたのは、いかにも「私、生徒思いのいい先生やってます♡」と心の声がだだ漏れしそうな笑顔を浮かべて迫り来られたことだ。

その度に悲しみと胸糞の悪さが込み上げてきたのを覚えている。

なんなら、取り乱しすぎて何度か堤防決壊させたこともある。

 

それだけ不幸オーラを放っていた子供時代だったからなのだと思う。

実際、ちょっと突けば心の膿がどっと吹き出しそうなくらい、

当時は重すぎる闇を心に抱えていた。

でも自分にも、他人にはそれ以上に、どうしようもできないことだったし、

自分の惨めさを「他者が見ても、救わなければならないと思われる状態」と認めなくなかった感情も相まってか、

とにかくそっとしておいてほしかった。

それなのに、偽善者先生はそこを容赦なく突いてきた。

 

f:id:niconicocolo:20200905162552p:plain

 

当時もわかっていたことだし、今考えてもそうなのだけど、

おそらく彼らに悪気は全くないんだろうな、と。

自分のその言動が相手をさらに追い詰めていることは、想像すらしていない(もしくは、できない)んだと思う。

他者と繋がりを持つことに喜びを感じるタイプの人であれば、

これを好機と捉えて、先生相手にデトックスするのかもしれない。

でも私にとっては、心の中がえぐられかき乱される屈辱の感覚しかなかった。

それもよりによって、(数少ないけど)そこら辺の友達より遥かに赤の他人である先生なんかに、

なぜ心を開かなきゃいけないのか、どうしても理解できなかった。

そもそも人に心を開けないことに苦悩していたのだし、

失礼を承知で強引に例えるなら、下半身麻痺の人に、

「ねぇ、何であなたいつも車椅子に乗ってるの?

みんなみたいに自由に歩き回りたいと思わないの?

さぁ、立ち上がって、私と一緒に走ってみようよ!気持ちいいよ!」

と問い詰めるのと同じことだからだ。

 

いっそ私にずっと無関心でいてくれた方がどれだけ助かるか、と何度考えただろう。

でも残念ながらそんなことは、当の本人はもちろん、

親(後に毒親と判明)に自分の気持ちを話したところで、全く理解されなかった。

そりゃそうか、当事者以外は誰も彼も、「誰かを気にかける=絶対的な善」と信じたまま思考停止しちゃってるもんね。

 

そもそもの話ね、

当時の私含め、子供だって頭は悪くないし、

あなた方先生が信頼するに値する人間、かつ、自分の悩みを解決してくれる見込みが高い人間だと判断していたら、

自分から相談しに行きますからって。

だからあなたにいつまでも相談しに行かないっていうことは、

そうでないことの立派な意思表示なのよ。

それに気付かず、「私は相談するに値する人間よ」と自ら宣言しに向かうなんて、

(そして人によっては数回拒まれてもなお、しつこく売り込みに来るなんて、)

どの面下げてんだよ、身の程を知れ、としか思えない。

ちょっとしたストーカーだな、とすら思う。

 

当時の私はめちゃくちゃ小心者だったから、

「あなたに何の関係が?私のこと、何も知らないくせに。ほっといてくれませんか?」

なんて、喉まで出かかっても声になんてできなかった。

今の私だったら言っちゃってたのになぁ、なんてたまーに妄想するけど、

どれほど偽善者だろうと先生というものがトップに立つ学校という場が、

自分の世界のほぼすべてを占めていたような「生徒」という身分じゃなくなったからこそ思える部分というのも、

少なからずあるんだろうなとは思う。

 

自分の場合は、元々他人というものに関心が薄いというのもあって、

そのような人になる心配は少ないのかもしれないけれど、

相手を助けるつもりの行動が相手を傷つけることもあるってこと、

自称親切マンは特に自覚した方がいいんじゃないかなって思う。

自分の知らないうちに親切を押し売りして、

あなたは自己肯定感に酔いしれるかもしれないけれど、

押し売りされた方は心がズタボロになることもあるんだよ。

この世によくある、地獄絵図の一種ってところなのかね。

Q. 自分は変わりたいのに上手くいかなくて辛い→A. 無理して変わる必要はないよ

これまた日記を読んでいて思ったことから派生して書こうと思う。

初期の頃は、1回書くごとに「未来の私へ」から始まり、「過去の私より」で締めていたことからも、

「誰にもわかってもらえないだろうけど、きっと未来の自分ならわかってくれるのではないだろうか」藁にもすがる思いで書き綴っていたことが窺える。

その返信を今ここでするつもりで、ちょっとだけ書いてみる。

 

私は小学校高学年の頃に受けたとあるトラウマによって、

その後の人生をずっと「シャイでコミュ障な人」として歩むことになった。(少なくとも20代の現時点でもそう。)

10代〜20代前半の私は、こんな自分を変えたくて、でも上手くいかなくて諦めて、でもやっぱり変わりたくて、…っていう繰り返しの歴史だったと言っても過言ではない。

私は割と真面目人間の部類に入ると思うけれど、

こういうとき、真面目な人ほど、

「今の私は全然ダメだ。もっとこうならなければならない。

でも上手くできない。何で皆にはできて、私にはできないんだろう」

ってぐるぐると思い詰めてしまうと思う。

実際私も、学生時代の大半は、土壺にはまったかのような思いですごしていたと記憶している。

でもやっぱり、何年もそんな状態でいるのなんてしんどすぎるし、

どこかで認知を歪ませなければ、限界を迎えた心は折れてしまうのだ。

この「認知を歪ませる」というのがポイントとなるのだけど、

別にこれ自体はネガティブなことではなく、

むしろ自己防衛本能として当然のことだし、

真面目人間はもっと大いに活用していっていいんじゃないかと思う。

 

私の場合、学生→社会人、という環境の変化も大きな要因の一つだったとは思うが、

もう、変わろうとすること自体が苦しみを生むのなら、

前提から変えて認識してしまおうと、ここ最近やっと吹っ切れた気がする。

どういうことか、ざっくり言うと、

「別に、自分は自分の価値観や考えに沿って生きているだけだし、

他人であるあなたに私の言動や性格がどうこうとか言う筋合いなんてないよね?」

と、開き直ることだ。

…「なんか嫌なやつだなぁ」と思うだろうか。

それとも、「なんだ当たり前じゃん」と思うだろうか。

おそらくどちらもその通りである。というのも、

事実はそのままに、でもその解釈を変換することによって、

自分の中だけで、都合よく「嫌なやつ」になっちゃうことを意味しているからだ。

と言っても、「こんな愚民どもとは関わらねーよ!」とかのネガティブな意識に走らないようにはしたいものだけど。←これだとただただヒンシュクを買うだけの根暗です。

大事なのは、「自分も他人も見下すことなく、現状の自分でも十分問題なく生きていける理由を探っていく」ことなのかな、と思う。

 

例えば、私の場合だと、

「他人と関わることに苦手意識を持った自分はなんてダメなんだ」

→「他人とがっつり関わらないと死ぬような場面ってそうそうないよね?あったとしても、苦手意識であって無理なわけじゃないから、そのときは頑張れるよね?誰にだって苦手なことはあるしね。実際それで、私と他人との人間としての価値に違いが生じるものじゃないもんね。それに、他人とあまり関わらず、一人の時間が多いからこそ、執筆活動とか、自分の好きなことに時間が割けるじゃない」

みたいな感じかな。(実際の思考は、もっと複雑で深いもの…あるいはその真逆、なのかもしれないけれど笑)

 

よくあるただの「自分をもっと好きになりましょう」「思うほど周りは気にしてないよ」的な気休めのアドバイスが絶望的に役に立たないのは、

私も条件反射で反吐が出そうなくらいに理解している(「それができるなら苦労してないっつーの!」ってね)つもりなので、

どうやったらこんな風に割り切れるのか、1つだけ行動アイディアを出してみようと思う。

結論から言うと、自分の軸をはっきりさせること、に尽きると思う。

 

無理に自分という人間に対して自信を持つ必要はない。

でも、自分の軸、つまり自分の根底にある価値観は明確にして、それに全力で信頼を置いてほしいとは思う。

自分の軸に自信が持てないなら、

「どう考えても、自分の中では、これが軸であることは揺るぎないことのようだ」

と思えるようになるまで、どこまでも考え抜けばいい。

それがただの仮初の自己正当化であるならば、

どこかで虚しさを覚えることになるはずだ。

大多数がこう言うからこう、という思考がどこかで入っているのであれば、

ぐるぐると思い詰めているときの思考から抜け出せていないことがわかるだろう。

 

例えば、「友達がなかなかできない」ことで悩んでいるなら、

そのことが悩みとなっている前提には、

「友達は多ければ多いほどいい」の他に、

「ひとりぼっちは惨め(に見られる)」、

「友達がいなければ充実した人生にならない」、

「友達こそが自分の存在意義を教えてくれる」、etc...

のような、どれも、冷静に考えてみれば根拠が曖昧なのにそのまま広く浸透・支持されてしまっている考えがあって、

つまりあなたは、世間の"常識"とやらにただ踊らされていた可能性が高い、

ということにまず気付くことが重要なのだ。

 

もしそれでもやっぱりあなたが「世間の常識=自分の常識」としか思えないのなら、

死ぬ気で自分をそのように変えようと努力すればいいと思うし、既にそのように動いているはずだ。

でもどこかで苦しく思えるのなら、あなたの軸は別のところにあって、

無理して変わろうとするのは、却ってよくないんだというサインなのかもしれない。

 

完璧な人間なんていない。

このことに気付くだけでも、気持ちはずっと楽になるんじゃないかな。

足掻かなくなったあなたを支えているのは

「諦め」ではなく「気付き」である状態、

を目指してみてはどうだろうか。

親の期待になんか応えるな

先日宣言した通り、日記の整理を進めているけれど、

想像以上に精神的に重く来る作業だなぁと感じている。

というのも、言ってしまえば今更思い出す必要もないような、

色々な記憶(主には毒親からの仕打ち)が蘇ってきてしまうからなんだなー…。

でももちろん、そういったことは想定の範囲内であって、

早速、このブログのネタに活用するという効果(?)が得られる、と

ポジティブに捉えるようにしている。

タイトルにあるテーマについて、

日記を読み返していて今の私が思うことを、

半分は当時の自分に言い聞かせるつもりで書いてみる。

 

「親の望む通りの人間になろう、そのために努力しよう」

こういった考えは、考えているつもりでいて、

実は思い切り思考停止している状態に他ならない。

「自分であれこれ考えるより親に決めてもらった方が楽だし、

いざとなれば親を責めればいい、自分は悪くない」

このような他責思考、他力本願が根底にあった以上、

当時の私としても、精神的に貧しかった毒親

根本は何も違わなかったりして、ね。

 

世の中の大半の親というものは、自らの子供に対して

「こうなってほしい、こうであってほしい」

という期待を多かれ少なかれ抱く生き物だと思う。

でも本当にその通りになったとして、あなたは幸せなのか?

 

例えあなたの親が毒親でなくても、

「とりあえず親の言う道に進む」が一番危険な選択である可能性もある。

親は自分より数十年も前の常識で生きてきた人間である。

士農工商時代とかならそれでよかったかもしれないが、

VUCAと言われる現代でそれが通用するのだろうか?

「年の功」も備わる一方で、「自分らの頃はこれが常識だった!」というジャンクな記憶も蓄積されている古い人間の存在は、

むしろ後者の弊害の方が、前者の恩恵を遥かに上回るのではないだろうか。

彼らによって導き出された、「とりあえず無難な道」がいかに危険な道であり得るか、

まだ気付いていない人は早く気付いてほしい。

 

どの道を選んだって正解にも不正解にも転び得るんだから、

それだったら親ではなく、自分が一番納得できそうな道を選んだ方が

自分も満足がいく人生を送れる可能性は高くなるし、

それに付随して結果的に親も幸せになるのではないだろうか。

「あなた」という人格を捨ててまで

親の望む通りの人間になったところで、

あなたが親から得られる感謝の念の期待値は

笑っちゃうくらいに「ない」ということは、

私がここに保証しておく。

 

そもそも、子供が親の期待に沿ったり、親を幸せにする義務など一切ない。

もしそれを強要する親がいたとしたら、それは毒親説濃厚なので、

あなたの感覚が狂う前に、距離を置くことを考えた方がいいかもしれない。

家族大好き人間には非常に冷たく聞こえるかもしれないが、

いくら血が繋がっていようが、あなたは親とは別の人間であり、

(まだ物事の判別がつかない幼い頃は別として、)

互いの人生に干渉する権利など最初から存在しないのだ。

 

客観的根拠のない「親の言う通りに」は、

ただの「思考停止状態」だし、ただの「逃げ」にすぎない。

もし、それでもいいと言うのであれば、

例えあなたの人生が失敗に終わったとして、

誰が責任を取るんですかって話を考えようか。

まず、親は100%取ってはくれないと断言していい。

例え親が遺憾の意を表したとしても、あなたを産み直すことなどできない。

何よりも大事な「時間」というものを、取り返す術などない。

となると、結局はそんな親に従う選択をした自分自身に、

責任というものが特大ブーメランとなって帰ってくるしかない。

いずれにしても、自分の責任で自分の人生を歩む他ないってことが、

明らかなんじゃないかな。

同じ失敗だとしても、

「自分で選択した結果」なのか

「親に決められて選択した結果」なのかで

自分の中で受け入れるハードルが全然違うのは、

言うまでもないだろう。

 

過去の自分含め、この基本的なことを理解できていない思考停止人間(親サイド、子供サイド両方ね)が

まだこの世の中にうじゃうじゃしている気がしてならないので、

今思うところを一言、書いてみた次第です。

【十ウン年分の総決算】歴代日記帳の大整理を行います

先月無事に電子書籍著者の端くれとしてのスタートを切らせていただいたわけですが、

<筆者プロフィール>の欄で

『日記帳が唯一の心の支えとなる10代をすごす』

と記載した割には、

このブログで日記帳についてはまだ何も触れていなかったな、と

ふと気付きました。

 

それもある意味当然の話で、

これまで書いては基本的にそのまま放置してきた

というのが正直なところだからです。

特に読み返すでもなく、かと言って捨てるでもなく、

いく度となく引越しする度に移動を共にしてきた割には、

何年も前に書いた内容なんて遠い記憶の彼方に消えてしまっていました。

 

でも、その場その場の心の支えとしてしか日記帳を利用していなかったとしたら、

私はとうにこれらを処分していてもおかしくないのでは?

無意識的にでも、何かしらの意図があって今まで保有し続けていたのではないか?

そうだとしたら、まさに今こそ、これらの日記帳を活用するべきときなのでは?

このように考えたわけです。

執筆に片足を入れ始めたところだし、

そろそろこれまでの経験を振り返り、整理してもいいかなと。

 

というわけで、タイトルにも書いたように、

新川の思考・文章執筆のルーツとも言える日記帳たちの大整理を行います!

十数年分のヒストリーですよ。ひゃあー

f:id:niconicocolo:20200801215917j:plain

(そうは言っても修士〜社会人の現在までの間、記入ペースはかなり落ちているので実質的には十年ちょい分くらいの量ではあるんですが。)

 

具体的にどうするかと言うと、

例えば今後いつこれら日記帳を手放す日が来たとしてもいいように、

重要な内容をデジタル媒体に移行していくところから始めます。

(さすがに取捨選択していかないとこのボリュームはヤヴァイ。)

ブログや構想中の書籍に使えるかもしれないネタを中心に、抽出していく感じになりますかね。

読み返していく中で、今後の自身の成長にも役立てられることを期待しています。

 

とりあえず、一冊目に取りかかってみたのですが。

 f:id:niconicocolo:20200801220151j:plain

まだ思考力浅浅の時代にも関わらず、この付箋の量(笑)

出来事報告系の内容も割とあるからではあるんですが。

で、読む前から覚悟はできていたのですが、やはり私には、

自分に対してツッコミまくりたいくらいアホだった時代がありました。

でもその頃色々と悩み抜いたからこそ、

今、いくらかは達観できている(のか?)自分がいるのも事実だと思うんです。

成長の過程の一つのステップだと考えれば、

決してネガティブなこととは言い切れないんだろうな、と。

 

ちなみに、原文をそのまま書籍やこのブログに引用することはないかな、と

現状考えています。

読者が限定される書籍の方であればまだ可能性はあるかもですが、

不特定多数がアクセス可能なこのブログでは、おそらく誰得にもならないかと^^;

 

元々マイペース更新ではありますが、この作業によって、

もしかしたら今後はもうちょっと頻度が下がるかもしれません。

でも見かけは更新が止まっていたとしても、

執筆活動自体を停止・休止したわけではないので、

今後とも新川をまったりと応援いただけると幸甚に存じます^^

 

新川由記

============

P.S. 写真の日記帳ですが、まだ販売中のようです。人気なんですかね。