草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

「個性」という名の「無個性」、「無個性」という名の「個性」

人間というのは、無意識的にでも

「わかりやすさ」を求めてしまう生き物なのだと、時折感じさせられる。

「何を考えているかわからない、毒にも薬にもならなそうな人」

「過激な発言もするし感情の起伏も激しいけど、何を考えているか一目瞭然な人」

目の前にいるとして、

さてどちらに関心を持つか?となると、

不思議と後者に惹かれてしまうのが大多数の人間じゃないだろうか。

 

これはネットの世界にもそのまま当てはまるわけであって、

インターネットという大海原で自分を見つけて、注目してもらうためには

その他大勢と何らかの形で差別化できていないといけないわけだ。

だから自己顕示欲が暴走しちゃった一部の人たちは、

犯罪動画を上げたり 経歴詐称なんかしてるわけなんだけど、

今回語りたいのは別にそういった残念な人たちについてではなくて。

際立った差別化なんてできないし しようとも思わないまでも、

何らかの形でネット上で発信活動をしようとなったら、

多かれ少なかれ、「セルフブランディングという必須作業の壁に

いきなりぶち当たることになるのだ。

例えば、私ももちろんその中の一人なのだが、

おそらく多くのブロガーが最初に悩んだだろう、「ブログのタイトル」

「自分のコンテンツへの名付け」という一世一代の大仕事を、

まだ方向性も確立していないことが多い、初期の初期に行わなければならない。

自分の扱うテーマについて端的に、かつある程度の独自性を持って表現することが求められるとか、もはや出鼻からラスボス出現ですかっていうレベルよ。

ペンネームやハンドルネームを持つ場合はそこでも、

それなりのセンスが求められるかもしれない。

※ちなみに、私、新川由記のペンネームについては以下の記事参照。

 

でもって、自分含めほとんどのネット民が当たり前のようにやっている

「セルフブランディング」という名の「セルフカテゴライズ」、

いずれは自分自身の首を締めることにも繋がりかねないのでは?

なんて、考えてしまう。

そもそもカテゴライズすることって、

その時点で自分を自分でカッチリと定義してしまっているよね。

自らを、形状が固定された枠の中に、押し込めているようなものじゃないかな?

(例えば、私のブログのタイトルを掲げている以上、バリキャリ系の記事を書くことは憚られるわけだ。

まぁほぼ絶対書こうとも思わないだろうし、それをわかってるからこそこう命名したわけなんだけどね。)

 

もちろんその方が読者やフォロワー(潜在的・顕在的両方)ウケはいいのだろう。

でもその「わかりやすさ」の代償って、

あまりに大きい気がするのは私だけかな。

私の著書でも「二項対立で考えるな」という話をしている通り、

世の中ってそんなシンプルなものじゃないよね?

そうじゃなくても、私の「OL」という肩書き一つとっても、

あと何年続くか、それとも何十年と続いてしまうのか、わからないものなのだ。

なのに「わかりやすさ」が正義とされる世界では、そんな正論は通らないわけで。

ジレンマに陥るわけですわ。

 

他にも、私の話をすると...

私の性格ってどんな?と自分に問いかけたところで、

「引っ込み思案」「現実主義」「繊細」

とかいくつかそれっぽい形容詞は出てくるけれど(そしてどれも間違いではないけれど)、

その一方で

「行動的」「楽観的」「大雑把」

な私も共在していることも確かに事実なのだ。

そもそもどれも人前で「私は、◯◯な人間です!」なんて自己紹介するには

微妙すぎるラインナップだから敢えて言うことはないっていうのもあるんだけど、

一方が明確に肯定されてしまうと、もう一方の私は存在しないと強くほのめかしている、どころか何も言わずして否定するのと同等だ、

と聞き手(読み手)側は当然のように理解する。

肯定されたほうと逆の一面を第三者が垣間見たとき、それは「矛盾」と捉えられる。

でも実際はそのどちらもが自分の一部なのであって、

そもそも「◯◯な人間」として定義することの方が不自然なのだから、

何ら矛盾はしていないのだ。

だからわざわざ自分から自分を定義しに行って、半身を失うような愚行は極力避けたいと考えている(あくまで個人の考えであって、自己紹介で性格を明言することを否定する意図はない)。

そういう理由で、就活のときにやらされた性格診断とかも何気にしんどかったなー...。

「矛盾」する回答があったら評価が下がるとか、普通にプログラムされてそうだし。知らんけど。

 

だからか、今でも「自己紹介して」とかって言われると少し身構えてしまう。

自分でも、自分がどういう人間なのか未だにわからないんだもん。

だからこそ、わかりやすく、かつ客観的事実である「肩書き」にみんな走りたがるのかもしれんけど。

私は、今の自分を「ライター」とか「ブロガー」とか

定義していいのかすら、確信が持てていない状況。

だから仮に将来、私がどこかで紹介してもらえるくらいのライター/ブロガーになれたとして、

私は何系ライター/ブロガーとして定義されることになるんだろう。

全くと言っていいほど想像がつかない。

でも、

仮に長い活動の果てに、自分の意図していなかった方向のカテゴリーに収まっていたとしても、

別にそれはそれでいいんじゃない、と思っている。

三者からカテゴライズされることは、不思議と抵抗を覚えない気がするんだ。

それはあくまで「気がついたらそう(認識されるまでに)なっていた」という結果であって、

自分を半ば無理矢理、型にはめ込みに行って作り上げたキャラクターではないからね。

 

だから何が言いたいのかっていうと、

キャラが確立していないからこそ醸し出されるっていうか、

湧き上がるキャラというのもあると思うんよ。

言ってしまえば「無個性」という名の「個性」だってあっていいんじゃない。

だから思考回路ショートしちゃってるその辺の人たちは、

最近の若者は個性がないだのと騒ぐ前に、

「無個性」の中の「個性」を見つけられない自分の至らなさに気付いた上で、

ちょっとはそういう人にも寛容になろうゼって話ですよ。