草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

一途な努力が美しいと思っていた時期が私にもありました

先日出版した私の著書の中では、

「努力」についてそれなりにクローズアップしている。

「人生論」と「努力」というのは

元々切っても切り離せない関係にあるが、

世の中の過半数の人生論者は「努力推進派」だと見ている。

 

一方私はというと、

これまでの人生において比較的努力してきた方の人間だとは思うが、

だからこそ努力に関しては懐疑的な部分がある。

 

「努力は人を裏切らない」と人類は何度も口にしてきた。

努力に身を捧げるというのは、美しい行為なんだと。

更には努力なき者は人に非ず、とでも言いたげな風潮が追い討ちをかける。

私自身、それを頑なに信じて学生時代なんかは、

特に勉強に自分の全て(時間とかはもちろん、魂ですら)を注いでいたと思う。

 

でもあるときふと、

これまでの人生とこれからの人生、

向き合ったときに、疑問に思わずにいられなかった。

自分含め、世の中の人間は一生懸命に生きすぎてるのでは?って。

周囲から促されるがままに、努力の意味を深く考えることもせず、

小中高大と受験も青春も何もかも、親そして世間から期待されるがままに全力投球して、

社会人になってからも高いアウトプットを求められ

(一昔前まではそこまででもなかったのかもしれないが)、

結婚すれば良き配偶者、良き親としてもしっかりと振る舞い、

それと同時並行で、老後用の資金をやりくりして、、、

あれ?私は、人間は、いつまで頑張ればいいんだ??

というか、一生頑張り続けなきゃいけないなら、それは一体何のために頑張っているのだろう??

って感じるのよね。

もし努力する目的が「幸せになること」であるなら、

どうして世の中のこんなにも多くの人が不幸を感じているのだろう?

むしろ、がむしゃらに努力している人ほど不幸そうという矛盾、、、

...このようにして、私は「努力不要論(条件付き)」を支持するようになった。

 

ましてや凡人が寝る間も惜しんでするほどの努力なんて、

一部の天才たちが起こすちょっとした行動にだって敵うはずないでしょ。

私みたいな凡人がちょっと力を入れたところで、

アウトプットの差なんて高が知れているし、

ましてやそれで世界に影響を与えることなど、

可能性は限りなく0に近いと思っている。

だから凡人は凡人らしく、

周りに気付かれない程度に手を抜いて、

ほどほどに頑張るのがちょうどいいんじゃないかな?

 

でもだからと言って、何も行動しないでいいとは言わない。

周りに気付かれない程度の努力も、

ときには必要になるかもしれない。

「周りに気付かれない」と書いたのは、

(1)周りに気付かれる程度の努力は大体無理してしているケースが多いと思う

(2)そもそも努力は人に見てもらうためにするものではないと思う(そうだとしたら目的と手段が入れ替わっているだけなのでは)

という思惑からである。

「ここぞ」というときに、最低限の力で必要な分だけパッと行動する。

これこそが、スマートで美しい努力の一形態なのではないだろうか。

 

結局は、

自分がどこを目指しているのか?

自分はどこで満足を覚えるのか?

を把握し、「足るを知る」ことをしないと、

必要のない努力なんかして無駄に消耗することになりかねない。

行きすぎた上昇志向は、自分の「不足」部分ばかりにフォーカスすることになるし、

それは自分を蝕むかなり強力な毒になり得ると思う。

 

そんでもって私個人の目指すところはどこなのか、

最近やっと言語化できたような気がするので、

近いうちに公開できたらなぁと思う。

 

「努力」以外に人生で消耗しがちな場面、またそれらにどうやって対処すべきか、

ヒントがほしいなーって人は、私の著書↓を手に取ってもらえると嬉しいぜよ^^

 

インフルエンサーの哲学

私の著書を読んでくださった人なら既にお察しの通り、

私はインフルエンサーに対しては斜に構えて見ている部分がある。

でもそんなインフルエンサーを盲目的に崇拝する信者は、

それ以上に信用できないと思っている。

 

個人的にインフルエンサーの知人がいるわけではないので、

憶測もかなり交わっているかもしれないが、

人々がインフルエンサーを始める2種類の動機について、考察してみる。

 

(1)自己顕示欲の塊

こういうタイプは人物像を知れば知るほど、中身が薄っぺらいことが多い。

仮に本当に能力の高いスゴい人だとしても、

「え、こんなにスゴい自分ってやばくない?

こんなにスゴい自分をもっとみんなに見てもらいたいな」

という気持ちはどこかで持っているからこそ、

インフルエンサーになれているのだろう。

この中にも2パターンの人間がいると考えていて、

 1. 自己評価だけがやたら高くてそれを信じて疑わないただのおバカさんか、

 2. 自分が薄っぺらいのをどこかで認識しているからこそ、それを隠すようにハッタリをかけているか、

なんだと思う。

いずれにしても、結局は自己顕示欲の塊人間と言っても、

過言ではないのではないだろうか。

世の中の多数派に流される頭空っぽの人たちも、

ホイホイと感化されて、こういったインフルエンサー

何の疑問もなく崇めるようになる。

このようにして、空虚(なインフルエンス)が空虚(なフォロワー)を招く。

そしてその空虚な支持すらも、このインフルエンサーの自己顕示欲の養分となる。

結果、(外野から見れば)地獄絵図のようなサイクルが完成する。

 

(2)自分以外の何かに対する情熱が人一倍

(1)が自分自身に対する情熱が高い人たちだとしたら、

こちらはその対象が「自分以外の何か」ということになる。

自分以外に打ち込む対象があるということは、

すでにその人はその対象によって心がある程度満たされている可能性が高いだろう。

従って、空虚な自己顕示欲を満たそうと躍起になることも少ないだろう。

でも、だからと言ってこのインフルエンサーが安全な存在(?)かと言うと、

必ずしもそうではないと考える。

というのも、

 「この素晴らしさをみんなに知ってほしい」

→「この素晴らしさを誰よりも知っている自分を知ってほしい」

→「こんなに一途に情熱を注ぎこめる自分を認識してほしい」

→「自分を認めてほしい」

もしくは、

 「この素晴らしさをみんなに知ってほしい」

→「これを知ることでみんなにも考えや行動を変えてほしい」

→「みんな自分の思い通りに動いてくれるよね?」

という思いが多少なりとも背景にある場合も十分考えられるからだ。

つまり、(2)の裏にはがっつり(1)が隠れていましたーってオチだ。

 

こうやってインフルエンサーの真相を考えれば考えるほど、

よほど達観している、よくできた人間じゃないと

おそらく私の心を揺さぶるようなインフルエンサーには

誰もなれないと思う。

 

じゃあ、

私こそがそんな素晴らしいインフルエンサーだ!

と言いたいのかと言うと、全然そんなことはなくて、

そもそも私が執筆活動を始めようと思ったのも、

別にインフルエンサーになろうと思ってではない(多分なれないだろうし)。

(1)と(2)のどちらにも当てはまらないことがそれを証明しているでしょう。

どこかの誰かに読んでもらうことを前提に書き物をしている以上、

(1)が全くないかと言うと、そうとも言い切れないのかな。

でも、私はいいねの数や反響の大きさを一切目的にしていない。

TwitterとかのSNSで宣伝しまくる方法も、決してないわけではない。

でも敢えてそれをしないのは、

私の声を必要としない人たちにまで

私の声を一方的なセールスのように届けるのは、

私の美学に反しているからに他ならない。

「ブログはオワコン」と囁かれる中でも、

敢えてYouTubeとかではなくブログに投稿し続けるのは、

私の意図する活動方針とYouTubeは、

親和性がとても低いと感じているからである。

 

こんな頑固な私を、笑いたければ笑えばいいと思っている。

あなたはあなたの選んだ土俵で活動し、

私は私の選んだ土俵で活動していくだけだ。

お互いそこにとやかく言う権限など、一切ない。

誰かに影響されて選んだ土俵ではないからこそ、

そして無駄に注目を集めるような場所ではないからこそ、 

ここでは誰にも媚びることなく、

自分の思うがままに表現していくことができる。

 

極端な話、著書が一人にしか読んでもらえなかったとしても、

その人の中に何か響くものがあったのなら、

私はそれで満足である。

そのときには、「たった一人へのインフルエンサー」ということになるのだろうか。

それも悪くないと思う。

【自己紹介】新川由記について

今更感はあるけれど、

このブログの筆者である

新川 由記(シンカワ ユキ)

と申します。どうぞお見知り置きを。

この度電子書籍の著者デビューをしたわけでありますが、

完全に無名の者(その上素顔を公表するつもりは一切ない笑)ですので、いきなり信用しろと言われても難しいのは承知しております。

ということで最低限知っておいてもらった方が良いと思われる事柄を、

Q&A形式でひとまず公開します。

 

ここに掲載したもの以外の情報については、

記事を増やしていく段階で、

必然的に小出しにしていくことになるのかなと思ってますので、

少しでも新川由記という人間が気になってくださった方は、

引き続きチェックしていってくださると嬉しいです。

 

======ここから======

Q)本名?

A)ではないです。立派なペンネームです。

 

Q)ペンネームの由来は?

A)これを言うと身バレになるのでご勘弁を^^;

一応私にゆかりのある名前となっています。

ただ、本名にはかすりもしてないです(笑)

少々後付けにはなりますが、「由記」という表記には

「私には書き記す理由がある」

という意味も密かに込めています。

 

Q)なぜブログを始めた?

A)元々文章を書くことが好きで、

初めは電子書籍の出版を思い立ち、それを目標に計画を練り始めていたのですが、

あるとき、「ブログも同時に持っておけば、相互的に宣伝できるやん!」と思い付き。

つまり、相乗効果を狙ってみるのもありかなと(笑)閃いたわけです。←馬鹿正直

もちろんそれだけではなくて、

普段の思考の整理・次に執筆する書籍のメモ書き的な役割としても

活用していければいいなぁと思っています。

ちなみに、ご存知の通りブログでは自分語りが中心ですが、

書籍ではそれなりに読者目線で執筆しているつもりですので、ご安心ください(笑)

書籍が気になってきたな〜という方は、こちら↓からどうぞ^^

 

Q)本当に草食なの?

A)食事の好みに関してだけは、肉食かもしれません...。

 ======ここまで======

 

あと大事なことなので、

読者のみなさんへのお願いを記載しておきます。

 

◎ 私も知らないことがたくさんあるので、

ぜひ色々なご意見を聞きたいと思っています。

建設的な議論のためのコメントは歓迎いたしますが、

一方的・無根拠・誹謗中傷・いたずら目的など

本コメント欄の趣旨に反する投稿はお断りし、

コメントされても削除などの対応を取らせていただきます。

そのような投稿を執拗に行うなど、万が一悪質と判断した場合、

法的措置を検討させていただくことがあります。

◎ 特に記載のない限り、本ブログ内のコンテンツの著作権は、

当ブログの筆者(新川)に帰属します

(本当は↑こういった注意書きもあまりしたくないんだけどね、、

世の中どんな人がいるからわからないから、仕方ないか...。)

◎ (参考)

当ブログ『草食系凡人OLのひとりごと。』は、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイトプログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。

 

 

...今回のところはこれくらいになりますが、

他にも何か疑問がありましたら、可能な範囲でお答えしますので、

コメントお待ちしております!

こんな私ではありますが...

今後ともどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m

 

新川由記

【省エネモードで生きる】執筆の感想とか

前回の記事では無事に初出版をしたご報告をしましたが、

ここではその続きというか、

執筆中に色々考えてたことなんかを書いていこうかなと。

前回の記事まだ読んでない!という方はこちら↓から


実はあまり詳細に構成を設計することなく

半分ノリで途中まで書き進めてしまったという

執筆初心者あるある(?)な失敗を犯していました。

だから所々何を書けばいいかわからなくなってしまった→心が折れかけた

っていうのがあるわけなんですが、、、

でもその失敗がなかったとしても、

本当に地道な作業を何十時間と繰り返して初めて、

ある程度の分量の書物が完成するわけであって、

そういう意味でも物書きさんってみんなスゴいんだなぁって思います。

そもそも私は文章を書くのが決して速くはないというのもあるんでしょうけど、

途方もない時間をかけて執筆したような感覚でした。

(次からは構成作りにそれなりの時間をかけるようにします。反省。)

 

あとよく、執筆の世界では

「筆者の生き様がそのまま文章に現れる」とか言われますけれど、

本当にそうなんだなぁとというのを実感した気がします。

大した経験もなく、普段から頭の中もスッカスカだと、

当然その人の書く文章の中身もそれ相応のものとなるのも納得。

私もそれなりに経験して、普通の人より色んなことに向き合ってきた方だとは思っていましたが、

「まだまだだな...」

 と自分の未熟さ、小ささを思い知りましたね。

 

そして、出版の報告記事にて、

「書いたり書かなかったり」の時期を経て出版したと記載しました。

というのも、

週末のまとまった時間ほとんどを執筆に費やすよう、

自分自身を仕向けていた時期もあったりしたもんですが(特に自粛期間中なんかは)、

いくら自分が「やりたい」と思ったことであっても、

その後気分が乗らないタイミングや時期というのはいくらだって来るわけであって、

そもそもそこまで自分に負荷をかけてまで、

ちょっと早く出版できたからって、

どこまでのメリットが伴うのかが疑問に思えた、

という要因が大きいですね。

 

まぁ単にモチベーションがそこまでではない、という解釈もできるんでしょうけど。

やっぱり「省エネモードで生きる」ことは私の生き様というか、

そう生きるように造られた人間なのかなぁと改めて実感した次第です。

ストイックに生きるのには向いていない人間で〜す。٩( ᐛ )و ←

 

私はOLという本業を持っていますが、

ただ会社のために働くだけで日々を終えていくのではなく、

紛れもなく自分の資産として形に残るものを着実に築いていってる感覚ってのはいいものですね。

なんか、こう、

「他の誰でもないワタシという人間が、今、ここに生きてるって証を刻んでます!」

感というか。かなり大袈裟かもしれないですけど。

 

どのみち、これからも、細々とでも、

執筆を自分の人生の欠かせない一部にできたらいいなぁと、

そんなことを考えています。

 

...実はすでに次作の構想もだいぶ練り進めていまして(笑)、

冬には出版できるかなぁ...できるといいなぁ...といったところですね。(´-`)

ほどほどに楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。

とりあえず、まだ本書『省エネモードで生きる』を読まれていない方は、

Kindle Unlimited会員なら購入せずとも読めるので、

ぜひ一度チェックしてみてくださいね^^

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新川由記

【省エネモードで生きる】自著出版しました!

普段の投稿では主に自分語りをしながら

ゆるくいろんなことを考えていますが、

今回は重要なお知らせがあります。 

 

新川由記の処女作となる

『省エネモードで生きる:消耗するだけの人生なんていらない』

電子書籍版)が、先日Amazonにて

晴れて出版の運びとなりました!(じゃーん✨)

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すぐにでも購入する!という行動力の塊の方はこちら↓をクリック

気になるお値段ですが、何と!

Kindle Unlimited会員なら無料で読めてしまいます。

 

どのような経緯で出版に至ったか、

執筆中どのようなことを考えていたか、とか

詳細はまた今度にでも述べるとして...。

 

実は高校生くらいのときから、

「いつか本を書いて出版してみたいなぁ」という

何となくの淡い夢があったのですが、

AmazonさんのKDPという仕組みのおかげで

この度初の自著を出版できることになったわけです。

良い時代に生まれたものだ。。。

 

学生時代に修士論文として書いた文字数よりもずっと多く(笑)、

ひとまとまりの文章としては、新川史上最長のものとなります。

でも、いざなるべく客観的に中身をチェックしていると、

意外と短いっていうのを嫌でも身に染みて感じて、

当然紙の一般的な書籍としては、とても出版できる長さではないわけであって。

これだけでもなかなか筆(タイピング?)が進まず

心が折れそうになったことも何度かあるというのに、、、

プロの物書きさんには本当に頭が上がらないですね。

 

構想は2019年末くらいからありました。

それから書いたり書かなかったりの時期を経て、

OLとしての本業の合間を縫って、

本ブログの開設、記事更新と並行させ、

何とか完成まで漕ぎ着けました。

クオリティはともかく、今は自分を褒めたいですね。。

(本当は6月中に出版が小さな目標でしたが...ファイル変換とかに結構手間取ってしまいました(汗))

 

そして気になった方もいらっしゃるかと思いますが、

表紙めっちゃシャレオツだけど、新川作なのか?

まさか写真の人は新川なのか?

という疑問にお答えします!

答えは...どちらも違います!残念でした。🙅

私はデザインセンスはほぼないので、

ここはプロにお任せしようと、思い切ってあのココナラで依頼しました。

一般人が数千円でプロのデザイナーさんに気軽にデザインを依頼できるなんて、

いやぁ、良い時代に生まれたものだな。。。

 

今後は本書の内容を前提に記事を書いていくこともあるかもしれないので、

少しでも気になった方は、こちら↓のリンクから購入いただけると泣いて喜びます。

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以上、ご報告でした。今後ともよろしくお願いいたします。

新川由記

超高齢社会と日本への憂い(辛口)

超高齢社会の縮図のような家庭で育った私にとって、

現状の日本の超高齢社会の話題は 何となくでも

一個人として気になってしまうものがある。

 

でも、日本という国はまだ捨てたもんじゃないって

やっぱり一人の日本人として信じていたい部分はあるし、

日本のネガティブな側面である超高齢社会っていうのは

目を当てないようにしてしまう自分がいる。

 

だって、もう救いようなくない?

 

何をするにも人(特に若者)に上から目線でしか話せなかったり、

年金支給日にATMにこぞって殺到したり、

(ATMで終わるならまだいいけど、自分が使い方わからないからって職員さんの貴重な時間わざわざ奪いに行ったりとかあるらしいからねぇ...)

買い物で現金以外の支払いの仕方を知らなかったり、、、

(多分、お札と小銭以外のマネーが存在することすら知らないでしょう。そして、ただでさえ会社帰りの人でスーパーが混雑する時間にわざわざ来ないでくださいって言いたい。)

例えこういう人が母集団の一部だけだったとしても、

ほとんどの人間が歳を取るほど脳が幼児化・退化していくのは事実であって、

(柔軟性とか素直さが備わっている分、幼児の方がずっとましだと思うのは私だけだろうか)

こういう、脳だけがすっかりあっちの世界へイッテしまった爺婆が

若い世代の文化や生活を理解しようとすることもなく

厚顔無恥に好き勝手し放題やって

「日本の恥」「若者世代への負担の押し付け」という二大功績を遺して

(二大どころかもっとあるようでしたら失礼しました)

この世から全滅していくまでの10年、20年間とか

我々若者はただただ耐え忍ぶしかないのだろうか。

でもそのときにはきっと、

また新たな爺婆世代が誕生していて、

同じことを繰り返していきながら、

私もそう思われる世代の人間になっていくんだろうな。

「いつの時代も高齢者と若者は分かり合えないものだよ」

なんていう単純な話なら、ある意味幸せなんだけどな。

 

人間は幸せに長く生きたいがために

医療を発展させてきたのだろうけど、

その結果特に長く生きる必要もない人間が量産されて、

結局それが原因で被害を被り、不幸を感じている人間が増えたのだとしたら、

医療というものは天使の皮を被った悪魔なんだろうかね。

きっと医療人の中には、同じようなことを考えてる人が

それなりにいるのかもしれないけれど。

一度「病気Aを治療法Bで完治する」方法が確立してしまえば、

病気Aの人を治療法Bで手当てすることなく死なせでもしてしまえば、

高い確率でその医者は殺人犯ってことになるだろうからね。

例え、その患者が生きていること自体が

世の中にとって害であると証明されたとしてもね。

日本は確かに長寿と医療水準において世界に誇れるのだろうけど、

その結果が老害量産となるとな。。。複雑ですな。

 

そんな、一人の若者の憂いでした。

人間にあまり関心がない人間にとっての(ゆるい)死生観

※別に死にたい願望があってこれを書いているわけではないので、それだけは先に明言しておきます。

 

生きとし生けるもの全てが通る道である以上、

誰しも『死』について考える瞬間というのは

人生のうち何度か経験すると思う。 

 

私が子供の頃からぼんやりと思い描いている、理想の死に方というのがある。

私は自分の死んだ姿なんて誰にも見られたくない。

だから自分が死ぬときには、

失踪するかのようにある日ふといなくなりたい。

身近な人たちは、私がしばらく姿を見せないことで

何があったのかを静かに悟ることになる。

誰も嘆き悲しむことはしない。

誰も葬儀や法事に手を煩わすことはない。

 

◯回忌と称して親戚一同何度も集まる風習も、

家族ぐるみで休日に駆り出されるお墓参りも、

私が子供の頃から我が家では当たり前のように続いてたものの

未だにその意味が理解できていない。

世間体とか伝統という名の惰性とかにしか思えなくて、

ずっと冷ややかな目で彼らを見ながら、

独立するまで渋々と茶番に付き合っていた。

 

もしも私がこんなことを言おうものなら、

親戚一同、どころか近所の関係ないオバチャンたちもが

「ご先祖様のバチが当たるわよ、この恩知らず、恥知らずめ」

とか何とかいちゃもんつけてくるんだろうな。

 

でもって、

半日がかりで移動した先にある石に向かって手を合わせて、何が良い?

故人を偲びたいのであれば、場所はどこだって構わないはずだし

ただの骨(というとまた叩かれそうだが)を

ご立派な石碑を建ててまで後世まで守りたいものかね?

 

こんなこと言うと非情に聞こえるのは承知だが、

そもそも人間は死というものに対して、

意味を求めすぎている気がしなくもない。

生命体がいつかは死ぬというのは

宇宙が始まったときからわかりきってることなんだから、

いい加減慣れようぜって 思うのです。

(実際はそう割り切れないのが人情なんだろうけどね...)

 

この世の人間はこの世のことで手一杯なんだよ。

どうしてこの世を去った過去の人間にまで

至れり尽くせりしないといけないんだろう。

おそらくやっている側の人間の自己満足にすぎない

と言われれば、それまでなのかもしれないね。

故人の霊というのがいたとして、

その霊のために法事だのお墓参りだの生真面目にやって

「良いことしている」感に陶酔している人間を見たとして、

その霊はどんなことを思うんだろうね?

...え、こんな想像は非現実的だって?

じゃあ律儀に故人を供養しているそこのあなたは、

そもそも存在しない、あるいはあなたのことを見てやしない

霊にずいぶんと尽くしていらっしゃるんだね。

 

というのはちょっと煽りすぎた感があるけど、

いずれにせよ、こういった自己満供養は

毒親の子供に対する依存との共通点がなくもないなぁと

感じた次第だ。