草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

正しさとは -正義マンに思うこと-

近頃、正義マンが話題になっているとのことなので、

正義とは?正しさとは?についてちょっと考えてみる。

ちゃんと考えようとすると、哲学者なら本何冊も書けるくらいになるので、

もちろん深くまでは掘り下げていない。

 

今の時代は良くも悪くも、

色んな人が持つ色んな考えを、簡単に知ることができてしまう。

私もブログという媒体を使って、

ちょっとではあるけれど自分の考えを発信している者の一人だ。

自分が発信する考えはどれも、

自分の本心に嘘偽りなく表現しているし、

それでいて、特定の誰かを批判したり

ましてや誹謗中傷するなんて意図は到底ない。

それでも、一度投稿してからしばらく経った頃 ふとした瞬間に、

特に理由もなく、なんとなくではあるけれど

自分の投稿内容が とんでもないクズみたいに見えるときがある。

(実際そうなのかもしれないけどね。)

 

おそらく、時間を置いて文章から客観的に内容を頭に取り込むことで、

「そうか、私はこういうふうに考えているんだな」という

妙な発見が、そのとき無意識のうちに行われているのかもしれない。

でも、だからと言ってそこでわざわざ投稿を修正したり、

削除したりするようなことはしない。

「ものすごく正解・正論」というわけではないが、

間違いであるとも思えないからだ。

 

本当の「正しさ」なんて求めていたら、

何も言葉を発することができなくなってしまう。

と、私は思う。

実際、私はよく「たまにはまともなことを書かなくては」と

奮い立ってPCの前に座ってはみるものの、

「この話題の正解って何だろう?」

「どうやったらそれが正解だって証明できるんだろう?」

と考え始めると、全く手が進まない。

頭が切れる人間を装って、頭の良さそうな正論を並べ立てる

のにそもそも向かないキャラなだけなのかもしれないけど、

一方の立場を取って、あーだこーだととあるテーゼについて述べることは、

何かが違うと思ってしまう。

 

極端な話、「何も言わない」のは「間違ったことを言わない」のだから、

ある意味で「正しい」のポジションに自分を置くことが可能なのだ。

別の見方をすれば、自分の発信する意見に

100%の責任を負う覚悟がないのであれば、

それは発信しないこと自体が正解である、とも言える。

 

でも実際は、表現する能力と自由を持って生まれた人間として、

そんなことは不可能だという状況の下、

ただ一つ確実に言えることは

絶対的に正しい意見なんて存在しないと思う、ということ。

「意見」である以上、その人の主観は多かれ少なかれ入っているわけで、

その人の主観というのは、その人特有の性格、経験、環境、立場などが

合わさって形成されるものだから、

多種多様であって当然なものだ。

こちらは意見というより主観の問題だが、

一番わかりやすい例えとして

鬼の子視点の『桃太郎』のお話が挙げられるかもしれない。

 

 

正義マンさんがたどる道筋のパターンは大体いつも決まっている。

Aの行動をBが度を越して騒ぎ立てる

→Aを擁護するCがBをバッシングする

→Bが逆ギレしAとCの全人格を否定することにより、自分の立場を守ろうとする

(ここでなぜか事情をよく知りもしないDが現れ、Bの味方として参戦するとかしないとか。)

→泥沼

→別の関心ごと(叩く対象)が現れると同時に全員がそれまでの熱戦を一瞬で忘れる(Aは別かもしれないけれど。)

→上記を繰り返す

...はい。これ、何の時間ですか?

誰も幸せにならない、醜い意地と意地の張り合いでしかないよね。

正義って本当はこんなに醜いものだったんだろうか。

 

人それぞれ、安易に「正義」や「正解」にすがりたくなる事情はあるのかもしれない。

でも、どこかで「正義」や「正解」にも妥協しないと、

それは人を殺すことだってできる凶器にだってなる。

だから、全員が正解であり不正解でもあることを前提に、

全員が自分と向き合っていかなければならない。

もしも「正義」や「正解」を振りかざしたくなる自分が、あなたの中にいるなら

その根源にはおそらく、自身の無知・弱さがあるのかもしれない。

まずはその無知・弱さを認めることから、

あなたの本当の「正しさ」への道が始まるのではないだろうか。

そこまで「正しくあること」にこだわるあなたなら、

決して難しくはないはず、だよね?

人生のコップを満たすもの

中学生の頃だったか、こんな課題が出たことがあった。

「あなたの人生をコップに例えます。

それを大小様々な石で満たしていきます。

先に小さな石で一杯にしてしまうと、

大きな石を入れることができなくなります。

そこであなたはまず大きな石を入れてから、

隙間を小さな石で満たしていくことにします。

大きな石は、あなたの人生において最も大事なものを表します。

さて、あなたの大きな石は何ですか?

そしてそれはなぜですか?」

(課題文自体の記憶はかなり曖昧だけど、まぁ趣旨としてはこういうこと。)

 

当時私は訳あって、この課題に取り組んでいるところを

親にばっちりと監視把握されていたのだが、

何の迷いもなく、自分の「大きな石」は「友達」だと

決めて、それを親に伝えていたのを覚えている。

(今も割とそうだが)当時の私というのは、

とても「友達」が人生の大きなウエイトを占めているとは言えない状態だったし、

今の私からしたら、過去のそんな自分含め、

「人生で一番大事なのは友達!」主義の固定観念人間は

ちゃんちゃらおかしい存在でしかない。

 

でも、当時の私がなぜそのように半ば即答したか理由も知っている。

一つは、友達がなかなかできない悩みが

当時の私の脳みその大半を占めていたからこそ、

友達というものを切望し、それが尊いものであると脳内変換されていたこと。

もう一つは、おそらく親が望んでいるであろうその「模範解答」を、

良い子のように察して

良い子のように答えてあげてたんだってこと。

 

おそらく私のようなケースは少数派で、

世間一般でこのような回答する人の大半は、

本当に人生の大部分を「友達」が占めると言えるくらい、

友達がいないと生きていけないほど

交流が多い人なのかもしれない。

 

でもちょっと待てよ。

自分の人生なのに、どうして赤の他人で満たそうとするの?

「今の自分がいるのは、大事な仲間たちのおかげなんだ!」

って言う そこのあなたよ。

だったら、その仲間たちがいてこそ成し遂げられる

自分の人生において大事なことを書けばいいんじゃない?

それとも、あなたにとっての「自分」というものは

他人が存在しなければ成立しないほどの軟弱な存在なのか?

 

ただウェイウェイ騒いで時間を共に潰すだけの友達なんて、

あなたの貴重な時間、もっと言えば魂をやすやすと差し出すことと変わりない。

もっと早くこれに気付いていればな、と思う反面、

学校という、カースト制度がまかり通る異様な世界においては、

気付くことができなかったのも、

ある意味仕方なかったのだと思う面もある。

 

所詮は中学校の些細な課題だったしね。

万人受けする答えを書いて、さっさと終わらせたかった自分もいたのでしょう。

でも今になっても、

自分にとっての本当の「大きな石」は何なのか、

考えれば考えるほど言語化できなくなる自分がいる。

そうこうしているうちに、その言語化できない「何か」で

少しずつコップは埋まっていくのだけれど。

怒りと恐れ

人間が最も動きやすいのはこれら2つの感情に駆られたときだと思う。

実際、普段は比較的怠惰な私でも、

落第したくないから

テスト前には頑張って勉強したし、

ただの凡人で一生を終えるのが怖いから

ブログなど新しいことにも挑戦していってるし、

毒親から物理的&精神的自立を果たすために奮闘した経緯があるのも

多少の苦労を引き受けてでも 彼らを一生許したくなかったのと

彼らのコントロール下にあった過去の自分の再来を恐れ

何としても阻止したかったからだ。

 

今のこのコロナショックの最中では、

誰もが世の中が良くも悪くも変化していくのを感じている。

それはやはり怒りと恐れが至る所で渦巻いているからだと思う。

いや、実際は変化していることなんてそんなに多くはなくて、

それまで世の中が潜在的に持っていた歪な部分が、

怒りと恐れによって 単に明るみに出ただけなのか。

 

「政府は無能だ、信用なんてできない」

「自分がいつかどこかで感染するかもしれない」

「先行きが見えない中、これからの生活はどうなる?」

「自分はやりたいこと全部我慢しているのに、なぜ彼らは自粛しない?」

人々が口にする不平不満、愚痴、憂い、鬱憤etc.は

どれも似たり寄ったりな上に、これといって目新しいものはない。

歴史上幾度となく繰り返されてきた、人間臭い感情の渦だ。

それでも、これくらいの強い感情に駆られない限り、

何かを変えよう、変わろうという気すらなかなか起きないのが

我々人間なのではないだろうか。

 

「平和ボケ」という言葉があるように、

我々は満足・妥協できる暮らしを現状として享受する限り

どんどん怠惰に、どんどんお馬鹿さんになっていく生き物なのかもしれない。

 

怒りと恐れはどちらもネガティブなイメージがあるし、

実際私も本音ではどちらも避けた平穏無事な人生を送れれば、

それに越したことはないと思っている。

でも現実問題、

そんな夢みたいなことを言っていられるほど世の中は甘くないし

逆に怒りや恐れを感じたときにしか

我々に成長する機会は与えられていないのかもしれない。

まぁ、その折角の機会を

自身の退行に使ってしまう人もいるんだろうけど。

 

いずれの感情も、用法用量を守って正しく使いたいものだ。

親和欲求

みなさんご存知の通り、

スクールカーストというものが存在する以上、

学生時代のヒトの価値というのは、

どれだけ友人が多いか、どれだけ人気者か、

ってことでほぼ決定される。

それは映画やドラマも助長する、合法的なカースト制度だ。

ましてや、一緒に食事する相手すらいないなんて、人に非ず!

と、言わんばかりに、友情だの交流だのを賛美する。

 

そんな私は小学生の頃から、

友人の数は決して多くない人生を送ってきている。

そんな「人に非ず」な自分が惨めに思えたし、

大人しい性格だからかな、これ何とかならないかな

って思って、

大学の一時期、頑張って"社交的"になろうとしていたこともある。

 

でも、やっぱり変わることはなかった。

どんなに明るく振舞っても、人に親切にしても、

「平均的な」同年代の人にも届かなかったし、

もちろん人の輪の中心になることなんてなかった。

面白いことに、所属するコミュニティが変わろうと、

私のポジションは全くと言って良いほど変わることがなかった。

私が社会不適合者だからなのか?

何か自分で気付かない欠陥があるのか?

と何度考えたことだろう。

 

あまりに考え飽きて考えることすら忘れていた頃、ふとたどり着いた答えは、

「親和欲求が低いから」

だった。

そもそも私は、誰かのことを知りたい、交流したい、親しくなりたい、

といった欲が薄いんだと気付いた。

だから常に誰かとつるむとか、人の輪の中心にいることなんて望んでないし、

話がちょっとでも合わない人と一緒にいて自分を息苦しくさせるくらいなら、

誰にも邪魔されない場所で一人でぼんやりしていた方が幸せなのだ。

 

社会人になったばかりの研修期間中、

昼食を食べるために食堂にひしめき合って座る

大勢の新入社員の中の一人となったとき、

私はそれを確信した。

長年の謎がやっと解けた思いだった。

みんながみんな何人もの同期と語らいたいわけじゃないんだよ。

別に同期と仲悪いとかいうわけじゃなく、

今後どうなるかもわからない彼らとの、

薄っぺらい交流に興味が持てなかっただけだ。

この強制的に設けられる交流の場が私は嫌いで仕方なかった。

例え自分が望んで「ぼっち飯」したところで

(実際はそんなスペースないくらい食卓は混雑していたけど)、

周囲からは冷ややかな目で見られるだろうし、

そうじゃなくても有難くも(←皮肉)誰かしら気を遣って隣真向かいに座ってくるだろうし、

どっちにしても群れの呪縛から逃れられない自分を想像するだけで、惨めな気持ちになる。

そしてそんなことで惨めな気持ちになる自分に対しても悲しくなるんだなこれが。

(思い返せば中学高校もぼっち飯圧倒的不可能な環境だったなぁ...よく頑張ったわよ私(遠い目))

 

「誰もがどこかのグループに属していなければならない」

そんな環境を押し付けることが、

私みたいな人間にとってどれだけ酷なことか、

一体どれくらいの人が気付いているんだろう?

誰だって、興味のないことを強制されたら、

良い気分なんかしないよね?

いくら体に良いからって、一定量以上の栄養たっぷり野菜を

毎日強制的に食べさせられてるのと同じで、

勘弁してくれってなるよね?(え、ならない?)

 

極論を言わせてもらうと、

他人と交流することには多少のメリットはあれど、それは義務ではないし、

それを強制するような空気・制度のあるコミュニティなんて

消えればいいと思ってる。

 

スクールカースト底辺を漂っていた私は、

今ではその身分から解放された生活を謳歌している。

この性格こそ変わることはないだろうが、

こんな自分自身をも受け入れられている今、

私は幸せだ。

 

大人になるってことは、

「孤独を愉しめるようになる」ことなのかもしれない。

孤独を孤独と思わないのも、今の私の才能の一つだと気付けたんだし、

大人になった今こそが、人に興味が持てない私が輝けるときなんだ。

と、言ってみたところで、

カースト上位層のみなさんには負け惜しみに聞こえるのかしらねぇ。

労働について思うこと

やれ社畜だの、やれ働き方改革だの、

世の中のサラリーマンの嘆きは止むところを知らない。

そういう私も一応サラリーマンの端くれとして

ちょっと思うことはあるので、

ちょっとだけ嘆いてみる。

 

我々の間にすっかり定着している

週40時間(1日8時間)勤務というのは、

産業革命時代からの伝統らしい。

産業革命時代ですよ?200年前に提唱ですよ?

これ、いつまで人類は続けるつもりだろう?

 

特に日本人の間では長時間労働はウケたようで、

長時間オフィスに居座ることが長年美徳とされてきたし、

今でもそのような会社がたくさんあるのは

みなさんご存知の通りである。

そして2020年における、比較的進歩的な職場でも、

時間きっちりで退社することが憚られる空気というのは

若造の私でも何となく感じている。

 

幸いにも私は、残業がないも同然の職場で、

少なくとも苦にはならない仕事をさせてもらっている。

そんなホワイトな職場でも、

定時ダッシュする人は せいぜい1、2人だ。

その他の大多数は、意図的かは知らないが、

20〜30分程度かけてからやっと仕事を片付け、退社する。

比較的ドライな私からしたら、

その20〜30分の残業代が出ない残業を

毎日の儀式のように行う同僚たちの理解に苦しむ。

とは言え私も、周りの目は多少は気にするので、

間を取って10〜15分くらいで お先に失礼している。

(ちなみに2020年4月現在は緊急事態宣言の下、

部署内全員ずっと在宅勤務だ。)

 

私のように温室のような職場環境にいると、

未だに絵に描いたような激務を課す会社が

都市伝説とすら思えるレベルになるが、

他社に入社した友人のリアルな話を聞くと、

むしろ私の方が恵まれたレアケースなのだと再確認させられる。

 

慢性的に長時間労働を行わざるを得ないほどの

人手不足の職場が多くある一方で、

仕事にありつけず、その日暮らしで何とか

食い繋いでいる人たちもいる。

そんな両極端な日本社会が、個人的には不思議で仕方がない。

 

普通に技術的に考えて、昭和時代と違って現代では

何でも効率的に進められる環境は整えられるはずだ。

それなのになかなか「無駄な仕事」から抜け出せない老害会社が多いのは

人々の意識が変化を恐れそれを妨げているから、に他ならない。

これまでのやり方を変えた場合のメリットを知らないから、または想像もできないから、はたまた変化によって自分は淘汰されてしまうことを知っているからなのか...、

いずれにせよ、一部の頭の固い方々が

「やり慣れた方法」に固執することほど

世のため人のためにならないことはない と思う。

 

色々話が逸れて結局何が言いたいのかってことなんだけど、

人間(特に日本人?)はいつになったら、

「週40時間働いてやっとスタートライン」

的な思考から抜け出せるんだろうね。

個人的には週30時間とかでも十分なんだけど。

(特に在宅勤務していると、職場特有の邪魔の入らない分、

8時間集中状態を維持するとか無理ゲーと余計思う。)

最低限の生活は保障された上で、

働きたい人だけが、働きたいときに、働きたいだけ働ける

そんな世界が一番理想的であることは間違いない。

 

それからもう一点。

昨今のコロナ騒動で

「満員電車問題」や「不要不急の線引き問題」が

浮き彫りになってきていると思う。

「自分にとってはめちゃくちゃ重要な仕事でも、

赤の他人から見たら 不要不急に見える可能性はあるのだろうか?」

「あれ?自分のこの仕事は、毎日の満員電車で

感染のリスクに晒され続けてでも やりたかったことだっけ?」

これをきっかけにこのようなことを考えるようになった人は

どれくらいいるのだろう。(単に好奇心からと言えばそれまでだが。)

 

正直私には、仕事の奴隷になる人の気持ちがわからない。

本当に嫌な仕事なら、辞めればいいだけ。

あまり好きでない仕事なら、

一歩引いたところから関わる意識で、

怒られない程度にほどほどに手を抜けばいい。

好きな仕事なら、労基法に引っかからない程度に

思いっきり楽しめばいい。

 

うん、わかってるよ、

私がこんなこと言うのも無責任かもしれない。

でもね。

仕事だけが人生の全てだとは、到底思えない。

生きてさえいれば 人生は何とかなるものだ。

悲しいことに、日本では珍しい話ではない、

仕事や職場が理由で自死を選ぶこと、これが

いかに馬鹿馬鹿しいことか。

あなた自身が幸せになれない仕事なんかやったって、

誰が幸せになると言うのだろう。

まずは自分の幸せありき、だよ!😺

ちょっと言いにくいことをあえて

言わせてもらいます。

それがこのブログの趣旨の一つでもあるし(笑)

 

みなさんご存知の通り、2020年4月現在、

コロナ騒動で世界中が多大な影響を受けている。

これまで当たり前だとみんなが認識していた日常的な活動が、

今では許されない、そんな歪な空気が

世界の至る場所を覆っているようだ。

 

おそらく世の中の大半の人は、

平常通りに世界が早く戻ることを願っているだろう。

でもそんな願いを嘲笑うかのように、

2022年までは影響が続く可能性があるとの研究が発表されている。

もし本当にこの通りに長期戦の未来が来るとして、

そしてもし人類が人命を第一に考えるのであれば、

これまで積み上げてきた常識等々の大清算に迫られる局面に

人類は差し掛かっているのだろう。

実際私は、影響が長引く度合いにもよるが、

世界はもう二度と完全に

beforeコロナ同様に戻ることはないだろう

という考えでいる。

 

このように言うと、多くの人は

ネガティブな意味で捉えると思うが、

(ここからがちょっと言いにくい部分になるわけなのだが、)

私は比較的楽観的に、この状況を見ている。

 

清算ということは、

良いことだけでなく悪いこともみんな

綺麗さっぱり片付けて、

そこから新たな素晴らしい世界を

イチから築いていくチャンスでもあるんだ。

経済活動のそもそもの在り方に始まり、

時代にそぐわない習慣、ブラック企業、腐敗した政治、、、

こうした「これまで見て見ぬふりをされてきた」あらゆる問題は

見直しを余儀なくされ、

やがて淘汰されていくのだろう。

これくらいの大掛かりなショックを与えられて初めて、

歪だったのはbeforeコロナの世界の方だったってことを

やっと人類は気付けるものなのかもしれない。

 

多くの人命が失われ、経済も大ダメージを受けているという

ニュースを毎日のように見聞きしていれば、

ここ1、2ヶ月の私の精神状態は当然、

ケアフリーとは程遠いものである。

それでもなお、私はこの先に待っている

afterコロナの世界がとても楽しみだ。

 

実際、私のように元々陰キャ内気で

1人の世界に浸ることが好き、

むしろ社交の場は苦手、って人にとっては

「なんて良い時代がやって来たんだ!」

くらいに思ってるでしょ?(でしょ?)

 

今までは、暇さえあれば

仲間と街に繰り出さずにいられなかった

その辺の陽キャのみなさんも、

自粛続きの毎日の中で

色々と考えさせられることも

内省に使う時間も

格段に増えていることでしょう。

自分の力ではどうにもならないことを

責めたり 憂いたりする時間があるなら、

こんなときだからこそ

これから自分はどうやって生きるべきか?

自分のため、人のためにできることは何か?を

じっくり考えたいものだよね。

(これは陽キャ陰キャ関係なくね!)

 

後々から今この瞬間を振り返ってみたら

とても貴重な時代を生きさせてもらったんだな、と

誰もが思える日が来るのかもしれない。

そんな未来を迎えるためにも、

1日1日を大事に積み重ねて

強く生きていこうね。

考える葦とは

私は子供の頃、

母、祖母、大叔母、などの身近な大人たちと

頻繁に口論をしていた。

きっかけは、ほぼ全部

ほんの些細なことから始まっていたと

記憶している。

 

「大人」から見れば、私は

口答えをよくする 万年反抗期の  

生意気なガキだったかもしれない。

「屁理屈なんか言っちゃって」

とよく嘲笑された屈辱は、今でも忘れない。

でも実際に私が行ったことは、

納得できない彼女らの言動を

論理的に指摘して、

論理的な解説を相手にも求めた

ただそれだけである。

 

でも結局、私が投げかけた反論や問いに対して、

納得できる答えを彼女らの口から聞くことは、

(少なくとも記憶の中では)一度もなかった。

 

「子供だから」という理由だけで見下し、

話を聞こうともしない 取り合おうともしない

こんな思考停止した大人には、

殺して差し上げたいほど

子供ながらフラストレーションを感じたものだ。

 

そんなこんなで、残念ながら私の思考力は

幼年期に大部分の成長の機会を逸したため、

現在の私の思考力も 決して自慢できるものではない。

それでも、私はこれから先の人生ずっと、片足だけでも

哲学と交わる世界を歩いていきたいと思う。

 

性別、年代、国籍、貧富、

そういった所属を一切問わず

人間というものみんなが同じ土俵に立てる

数少ない貴重な機会、それが哲学だからだ。

 

むしろ子供の方が、

穢れのない目で世界を見ている分、

そして屈託なく

疑問を投げ、考えを発信できる分、

大人の方が、子供から学ぶことが多い世界

なのではないだろうか。

 

全ての学問が 哲学と切っても切れない関係にあるように、

そして学問の歴史とは 哲学の歴史であると言っても過言ではないように、

ホモサピエンス(=知恵ある人)ならば、

哲学抜きの人生なんて

逆に不可能じゃないだろうか?

 

ここで「哲学」という仰々しい名で言及しているが、

やることは結局のところ

「人類にとって普遍的な問題について、とことん考え抜く」

ただそれだけだ。

生きている人間である以上誰しも、

こうした問いを避けて通ることは不可能だ。

 

だから、これを読んでいる「大人」たちにお願いだ。

子供は、あなたが考えるよりはるかに賢かったりする。

思考停止していないで、

たまにはちょっと違う角度から 物事を見てみませんか。