草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

インフルエンサーの哲学

私の著書を読んでくださった人なら既にお察しの通り、

私はインフルエンサーに対しては斜に構えて見ている部分がある。

でもそんなインフルエンサーを盲目的に崇拝する信者は、

それ以上に信用できないと思っている。

 

個人的にインフルエンサーの知人がいるわけではないので、

憶測もかなり交わっているかもしれないが、

人々がインフルエンサーを始める2種類の動機について、考察してみる。

 

(1)自己顕示欲の塊

こういうタイプは人物像を知れば知るほど、中身が薄っぺらいことが多い。

仮に本当に能力の高いスゴい人だとしても、

「え、こんなにスゴい自分ってやばくない?

こんなにスゴい自分をもっとみんなに見てもらいたいな」

という気持ちはどこかで持っているからこそ、

インフルエンサーになれているのだろう。

この中にも2パターンの人間がいると考えていて、

 1. 自己評価だけがやたら高くてそれを信じて疑わないただのおバカさんか、

 2. 自分が薄っぺらいのをどこかで認識しているからこそ、それを隠すようにハッタリをかけているか、

なんだと思う。

いずれにしても、結局は自己顕示欲の塊人間と言っても、

過言ではないのではないだろうか。

世の中の多数派に流される頭空っぽの人たちも、

ホイホイと感化されて、こういったインフルエンサー

何の疑問もなく崇めるようになる。

このようにして、空虚(なインフルエンス)が空虚(なフォロワー)を招く。

そしてその空虚な支持すらも、このインフルエンサーの自己顕示欲の養分となる。

結果、(外野から見れば)地獄絵図のようなサイクルが完成する。

 

(2)自分以外の何かに対する情熱が人一倍

(1)が自分自身に対する情熱が高い人たちだとしたら、

こちらはその対象が「自分以外の何か」ということになる。

自分以外に打ち込む対象があるということは、

すでにその人はその対象によって心がある程度満たされている可能性が高いだろう。

従って、空虚な自己顕示欲を満たそうと躍起になることも少ないだろう。

でも、だからと言ってこのインフルエンサーが安全な存在(?)かと言うと、

必ずしもそうではないと考える。

というのも、

 「この素晴らしさをみんなに知ってほしい」

→「この素晴らしさを誰よりも知っている自分を知ってほしい」

→「こんなに一途に情熱を注ぎこめる自分を認識してほしい」

→「自分を認めてほしい」

もしくは、

 「この素晴らしさをみんなに知ってほしい」

→「これを知ることでみんなにも考えや行動を変えてほしい」

→「みんな自分の思い通りに動いてくれるよね?」

という思いが多少なりとも背景にある場合も十分考えられるからだ。

つまり、(2)の裏にはがっつり(1)が隠れていましたーってオチだ。

 

こうやってインフルエンサーの真相を考えれば考えるほど、

よほど達観している、よくできた人間じゃないと

おそらく私の心を揺さぶるようなインフルエンサーには

誰もなれないと思う。

 

じゃあ、

私こそがそんな素晴らしいインフルエンサーだ!

と言いたいのかと言うと、全然そんなことはなくて、

そもそも私が執筆活動を始めようと思ったのも、

別にインフルエンサーになろうと思ってではない(多分なれないだろうし)。

(1)と(2)のどちらにも当てはまらないことがそれを証明しているでしょう。

どこかの誰かに読んでもらうことを前提に書き物をしている以上、

(1)が全くないかと言うと、そうとも言い切れないのかな。

でも、私はいいねの数や反響の大きさを一切目的にしていない。

TwitterとかのSNSで宣伝しまくる方法も、決してないわけではない。

でも敢えてそれをしないのは、

私の声を必要としない人たちにまで

私の声を一方的なセールスのように届けるのは、

私の美学に反しているからに他ならない。

「ブログはオワコン」と囁かれる中でも、

敢えてYouTubeとかではなくブログに投稿し続けるのは、

私の意図する活動方針とYouTubeは、

親和性がとても低いと感じているからである。

 

こんな頑固な私を、笑いたければ笑えばいいと思っている。

あなたはあなたの選んだ土俵で活動し、

私は私の選んだ土俵で活動していくだけだ。

お互いそこにとやかく言う権限など、一切ない。

誰かに影響されて選んだ土俵ではないからこそ、

そして無駄に注目を集めるような場所ではないからこそ、 

ここでは誰にも媚びることなく、

自分の思うがままに表現していくことができる。

 

極端な話、著書が一人にしか読んでもらえなかったとしても、

その人の中に何か響くものがあったのなら、

私はそれで満足である。

そのときには、「たった一人へのインフルエンサー」ということになるのだろうか。

それも悪くないと思う。