草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

日記が出発地点であるライター故の盲点?【新たなご報告もあります】

何ヶ月前かに、ふと気付いたこと。

「一般的にライターというものは、読者が共感するものを書こうとするものなのか?」

これまで細々とながらライターをしてきながら

こんなこと言うのも問題になりそうな気がしなくもないけど、

私には上記の「読者が共感するものを書く」をこれまでほとんど意識してこなかったことに気付いたのだ。

 

「いやいや、誰も読みやしないブログでだらだら独り言を書いてるだけならまだしも、

一応有料コンテンツも販売している身が何を言ってるんだ!」

って声が聞こえてきそうだけど、まさにそこがポイントだと思っているわけで。

有料販売できる書籍を執筆することを、私が本格的に決めたのは2年近く前。

対して、自分だけのために書き続けた、「ライター新川由記の根源」とも言える日記帳歴は十数年。

「日記帳とは?」と思われた方は、こちらもご参照ください。

そりゃあ、読者なんてものは意識しない執筆スタイルが染み付くわけですわ。

むしろ、誰かが読むことを想定して書く日記なんて歪でしかない。

日記の中だけが、私が当時唯一自由でいられた空間だからこそ、

楽しみながら長く続けられたというのもあるわけで……。

 

とは言え、そのスタイルを

「ライター新川由記」が丸々引き継ぐことは、もちろん問題になる。

大事な時間(と場合によってはお金)を使って

私の書籍を読んでくださる方には、

できるだけ満足いただけるコンテンツを提供したかったから

素人ながら、なるべく独りよがりにならないように気は配った。

なんだけれども、自分の書きたいことが

軸として常に中心に存在していたからこそ、

極端に言えば、

私の書いた内容が素晴らしいと褒め称えられようとも、

逆にボロクソに言われようとも、

私の執筆のモチベーションにはあまり関係ないとすら思える。

(もちろん、褒められた方が嬉しいのは間違いないけどね!)

要は、私が何を執筆するにしても、

「こういうことを書いたら共感してもらえるかな」という観点が入る余地が、

新川由記としての活動開始後も、あまりなかったように思える。

いや、広い意味で言えば、例えば著書『毒親サバイバーが生まれるまで』では

「アンチ・毒親」の方々の共感を集める方針で一貫しているんだけどさ。

いずれにせよ、ウケ狙いで読者に迎合することは今後もないだろうし、

そういうライターであり続けたいと思っている。

 

(ここからご報告タイム)

さて、冒頭の気付きになぜ至ったのか、という話ですが。

実は半年以上前から、『かがみよかがみ』というウェブメディアに

エッセイを投稿するようになったんですね。

↓↓新川由記の著者ページはこちら!↓↓

ありがたいことに今のところ、

投稿したエッセイは毎回採用していただいてるのですが

原稿確認の際にいただくフィードバックに、毎回のように見られる

「〜という部分に共感しました」「〜は共感する読者も多いと思います」

の文言。

それ自体には何の問題もないのだけれど、

「読者の共感」という観点は私にとって目から鱗とも思えたんです。

そこから冒頭の話に繋がった次第でして。

 

まぁ、つまり何が言いたいかというと……

ぜひエッセイのほうも覗いてみてくださいね!(^^)

 

新川由記