草食系凡人OLのひとりごと。

脱力して生きるくらいがちょうどいい。

発達障害疑いの私が発達障害者をウリに執筆を始めなかった理由

まずはじめに、、、

本ブログの最初の記事投稿から1年が経過しました!

いつも読んでくださっている方、新川由記を応援してくださっている方、

本当にありがとうございます。m(_ _)m

 

最新の著書『毒親サバイバーが生まれるまで』では初めて

私新川由記が、ASDという発達障害の疑いがある人間だということを

告白している。

 

実はこのブログを開設した当初、

毒親育ち+ASD持ち(疑い)

の人間のブログということを押し出し、

それら2つをテーマとして記事を執筆していこうと意気込んでいた。

そして、実際にそれら関連の記事をかなり書き進めていた。

だが、やがて心の中の疑問を無視することができなくなった。

 

おそらく一生涯形に残るブログというもので、

仮にも自分に「障害者」なんていうラベルを貼っていいのか?

いや、ブログはいつでも削除できるかもしれないけれど、

少なくとも一定期間の間、自分を「障害者」と定義付けて

その前提で色々な話を進めて、自分の意識にもそのように刷り込んで、

それで本当にいいのか?

という疑問を拭うことができなかったからだ。

誤解のないように書いておくが、

私は決していかなる障害者も軽蔑されるべき存在だとは思っていない。

でも、私があえて障害者という枠の中に自分を押し込めに行くことは、

それによって自分に甘えが生じてしまうリスクはあれど、

メリットはさして感じられなかった。

それに、正式に診断を受けたわけでもない私が

悲劇のヒロインぶって、知ったようにあれこれひけらかすのも

おこがましいことこの上ないと思えたのだ。

 

一方で、毒親育ちということは、どうしたって変えようがない過去の事実。

それでありながら、現在含め、一生に渡って

私の人生に多大な影響を及ぼし続ける事実。

それに、毒親や虐待というのは、間違いなく社会的な問題だから、

発信していくことにそれなりの意義はあるという信念を持てたのだ。

こちらのほうは、甘えだのおこがましいだの言ってしまっていては、

本当に心が壊れかねない。

 

毒親に関しては到底そのような感覚は持てなかったのだが、

発達障害に関しては、冷静になって考えると、

「私は確かに発達障害かもしれない。...で、だから何?」

と思うようになった。

実際、私自身は社会人生活を送る上で

大きな問題になるほど困っているわけではない以上、

仮に「発達障害系ライター/ブロガー」として活動しようものなら、

どこかでネタ切れになるのは十分予測できた。

それに、困っている度合いが比較的低いから、

いい加減な心で 生半可な知識を発信してしまいかねない。

そうすることによって、混乱を生じさせたり信用を失うようなことは、

自身のプライドとしても、最も避けたいことである。

そうなるくらいなら、発達障害者をウリにすることなんて、

「不幸自慢」くらいしか意義がないように思えてしまった。

(コミュ障だの陰キャだの言ってる時点で十分自虐なんだけどね。)

不幸自慢する人の痛々しさは、

幼少期から周りの大人たちを見てきたことで、

身に染みて理解しているつもりだ。

線引きは難しいところかもしれないけれど、

自分が抱えたハンデを盾に殻の中に籠るでもなく、

かと言って過去の傷とそこからの学びを忘れることなく、

大胆に、かつ謙虚に生きていきたいものだ。

 

そんな感じで、「毒親育ち系」ライター/ブロガーの新川由記が誕生した経緯の一部でした。

個人的には、「毒親育ち系」と

自分を定義付けるのもいかがなものかという疑念はまだあるにしろ...。

うーん、やっぱり自分を定義するのって難しい。(※以下記事参照。)

niconicocolo.hatenablog.com